2020年11月23日月曜日

『 南洲伝 』後書き(14)・・・Facebookの「投稿を編集」という機能が、使えなくなり、しばらく投稿を止めていたが、別の方法で「投稿の編集」が使えることがわかったので、また投稿を始めることにした。また、私事だが、薩摩半島の山奥(「毒蛇山荘」)に 、しばらく隠遁していたが、先日上京、戦線復帰 。

 





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『 南洲伝 』後書き(14)・・・Facebookの「投稿を編集」という機能が、使えなくなり、しばらく投稿を止めていたが、別の方法で「投稿の編集」が使えることがわかったので、また投稿を始めることにした。また、私事だが、薩摩半島の山奥(「毒蛇山荘」)に 、しばらく隠遁していたが、先日上京、戦線復帰 。2ヶ月前後、テレビのない生活を続けていたので、上京後、テレビを見て驚いた。「一億総白痴」(?)とかいう言葉もあったように思うが、なるほど、そうだったのか、と確信する。私は、山奥で、晴耕雨読を繰り返しながら、気晴らしには、焼酎をのみながら、もっぱら「Youtube動画」を見ていた。「Youtube動画」もくだらないと思っていたが、「Youtube動画」の世界の方が、はるかにレベルが高いことに気付いた。「Youtube動画」で、「オリンピックは中止決定・・・」と論じる本間龍(作家)や、コロナ大不況を論じる女装の東大教授、アメリカ大統領選挙の「不正選挙報道」など、「Youtube動画」の方が、はるかに情報量が豊富で、中身も濃く、面白い。テレビの「アメリカ大統領選挙報道」(明治大学の海野素央、上智大学の前島某)を見たが、「お笑い芸人たちの子どもニュース」にしか見えて来ない。日本のGDPが、現在、どのくらいなのか、あるいは日本が「IT戦争」で負け続けていることなども報道しろよ、と思うが、無理らしい。さて 、冗談はこのぐらいにして、本題に戻ろう。

ところで 、「西郷の唯一の欠点は学問がなかったことだ・・・」とかいう福沢諭吉の言葉に、私は、こだわっている。そもそも学問とは何か、福沢諭吉の言う学問とは何か、あるいは、福沢門下に、そういう学問のある人物がいるのか 、いないのか。私も、慶應義塾大学出身の塾員のはしくれだが、私の見るところ、福沢門下に、大学教授や実業家、文化人は、掃いて捨てるほどいるだろうが、思想的な広さと深さ、そして思想的感化力や思想的伝播力において、西郷南洲に匹敵するような人物が、一人でもいるとは思えない。少なくとも私は知らない。福沢諭吉の西郷論として有名な・・・『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』にしてからが、福沢自身が 、死後まで出版しないように遺言していたらしい。西郷が命を賭けて戦った「西南戦争」を、あるいは明治維新を、擁護する資格は、福沢にはない。福沢は、明治新政府、つまり大久保利通政府の「権力」を恐れているのである。






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2020年11月13日金曜日

『 南洲伝 』後書き(13)・・・西郷は、徳之島で、奄美大島時代について、奄美大島で世話になった役人・木場伝内宛に、手紙で次のように書いている。

 




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『 南洲伝 』後書き(13)・・・西郷は、徳之島で、奄美大島時代について、奄美大島で世話になった役人・木場伝内宛に、手紙で次のように書いている。

《 大島にいましたときは 、今日は今日はと待っておりましたので、癇癪もおこり、一日が苦しいものでしたが、このたびは徳之島より二度と出ることはないとあきらめていますので、何の苦もなく安心なものです。もしや乱になれば、その節はまかり登るべきでしょうが、平常であれば、たとえご赦免をこうむっても、島に留まる願いを出すつもりです。》(木場伝内宛)

奄美大島から帰還後、わずか二ヶ月足らずで、再度、島流しにあった西郷は、奄美大島時代とは異なり、大きな心境の変化があったと思われる。この手紙から察するに、奄美大島の西郷は、現世(政治)への未練が断ち切れなかったのだろう。しかし、二度目の島流しで、心に期するものがあった。現世(政治)への未練を断ち切っている。この後、さらに沖永良部島へと移送されるのだが・・・。沖永良部島へ移送後、今度は、得藤長(とく・とうちょう)へ書き送った手紙には、こうある。

《 昨冬、お手紙いただき、遠方へお心がけ下さり、かたじけなくお礼申し上げます。・・・。私は異議なく消光(日を送る)いたし、この島でも詰役人がしごく丁寧で仕合わせの至りです。囲い入りになっていますので、脇から見ればよほど窮屈に見えるようですが、拙者にはかえってよろしく、俗事にる粉れることもなく、余念なく学問一辺にて、今通りに行けば学者にもあれそうな塩梅です。まずはご安心下さるよう。》(得藤長(とく・とうちょう)1883、3、21)







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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。

 



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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。その時のことを、手紙で、こう書いている。《 悲憤千万  耐え難き時世・・・》と。
橋本左内との交流は、わずか二年 前後の短い期間に過ぎなかったが、西郷に、六歳下の若い橋本左内という存在は、鮮烈な印象を残している。最初の出会いから意気投合したわけではない 。むしろ、最悪の出会い方をしている。安政2年12月27日、橋本左内が薩摩藩邸を訪れる。西郷と話をするためであった。しかし、西郷は、橋本左内を、歳下で、インテリ風の風貌から、話をする前から、この人物はたいしたことはないと判断したらしく、甘く見て 、かなり侮蔑的な態度をとった。 しかし、橋本左内の政治や思想の話を聞いているうちに、西郷は、橋本左内への人物評価をガラリと変える。西郷は、わざわざ 、その翌日、橋本左内のいる越前・福井藩邸に、「失礼を詫びる」という形で、謝りに出かけている。後に、西郷は、尊敬する人物として、水戸藩の藤田東湖と並べて、橋本左内の名前をあげている。藤田東湖と橋本左内。二人とも、その後の歴史に名を残している大学者、思想家、政治家である。何故、西郷が、当代随一と言っていいような人物たちと、対等に交流出来たのだろうか。特に、行動派、武断派・・・と思われている西郷が、学者肌の藤田東湖や橋本左内と、意気投合した挙句、肝胆相照らす仲になれたのだろうか。西郷の方にも、学問や思想に関する知性と能力が備わっていたからではないか。奄美大島で、親しく交流した重野安繹(しげの・やすつぐ)との間には、こういう関係は成立していない。西郷も、重野安繹をそれほど評価していなかったし、重野安繹も、西郷の知性や才能、能力が理解出来ていなかった。藤田東湖や橋本左内と、後に東京帝国大学教授ともなる重野安繹との違いは、何処にあるだろうか。





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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。

 



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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。悲憤慷慨したり、自分を責め悲観したり、あるいは、誰それを激しく批判、罵倒したり・・・したこともあっただろう。おそらく、後に、重野安繹が証言したことは、ほぼ間違いはないだろう。しかし、それは西郷南洲の一面に過ぎないこともまた明らかである。たとえば、橋本左内とはじめて対面した時の印象を、橋本左内は、かなり辛辣に証言している。天下国家を声高に論じる血気盛んな青年・・・と。橋本左内は、「備忘録」に、こう記している。

《 卯月極月(安政二年十二月)、二十七日、原八(水戸藩士原田八兵衛)宅で始めて会す。燕趙悲歌の士う

なり。》(橋本景岳全集)


「 燕趙悲歌の士」と何か。時勢を憤り嘆く人という意味らしい。橋本左内の第一印象は、あまりいいものではなかったということだろう。橋本左内は、越前福井藩士で、西郷南洲より、六歳年下だったが、既に幼少期から、英才として注目されていたらしく、この頃、すでに藩主松平慶永の懐刀として、重くもちいられていた。橋本左内と西郷南洲は、共に 、藩主等が主導する「一橋慶喜将軍擁立運動」に、その実働部隊として活動し、邁進することになるのだが、少なくとも、この時点では、橋本左内は、西郷南洲をそれほど高く評価していない。しかし、西郷南洲の不思議なところは、そういう鋭い眼力の持ち主である橋本左内の評価さえも、短時間のうちに変えてしまうところだ。四ヶ月後の日記では、ガラリと変わっていく。

《西郷はすこぶる君候(斉彬) に得られる。当藩(越前藩)より(斉彬公に)仰せ遣わされた趣など、これを承っている様子。》


つまり、西郷南洲が、大言壮語の「燕趙悲歌の士」という第一印象とは異なり、薩摩藩主島津斉彬の信頼も勝ち得ている実直・有能な人だ・・・という評価へ変わる。こうして、意気投合し、肝胆相照らす仲になった二人は、藩主等の手足となって、「一橋慶喜将軍擁立運動」へと

突き進んでいく。しかし、二人の前にも、「安政の大獄」事件が立ち塞がる。西郷南洲が、奄美大島に島流しにあうのと、ほぼ同時に、橋本左内は、幕府の手に捕まり、安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。26歳であった。




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2020年11月8日日曜日

『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。



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『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。西郷南洲は、沖永良部島時代に、学問に打ち込みすぎて、「学者になったような気分・・・」と手紙に書いている。奄美大島時代にしろ沖永良部島時代にしろ、政治運動や倒幕運動・・・から切り離され、社会からも情報からも孤絶していた。西郷南洲の関心は内部に向かわざるを得なかった。「内部」とは学問や思想以外にない。西郷南洲の向きあった学問や思想が、未熟なものだったにしろ、凡庸なものだったにしろ、西郷南洲のような境遇に追い込められたものは、そんなに多くはないだろう。西郷南洲が向きあった学問が、経歴や肩書きで塗り固められたような表層的なエセ学問だったはずはない。西郷南洲の向きあった学問こそ、ホンモノの学問だったはずだと、私は確信する。司馬遼太郎のような「大衆通俗読み物作家」なら、西洋留学(遊学)の経験があるかないかで、学問のレベルを測定するだろう。西郷南洲は、西洋留学も西洋見物もしていない。西郷の留学先は、奄美大島と沖永良部島だった。「奄美大島と沖永良部島」が、留学先として不足だったはずはない。奄美大島には、昌平黌で、天下の秀才とうたわれ、後に東京帝国大学教授となる「漢学者・重野安繹」がおり、沖永良部島には、川口雪蓬(かわぐちせっぽう)という「陽明学者」がいた。そして周辺には、圧政や貧窮に苦しむ孤島の一般庶民・一般大衆がいた。学問を極めるのに、これ以上、恵まれた環境はない。
私は、ここまで書いて、唐突かもしれないが、私が、高校時代、読み始めて、強い影響を受けたドストエフスキーの約10年間に及ぶ、政治犯としての「シベリア流刑時代」を思い出した。ドストエフスキーもまた、シベリア流刑時代の「10年間」を経て、いわゆる、『 罪と罰』や『悪霊 』『カラマーゾフの兄弟 』・・・等を書くことになる「文豪ドストエフスキー」へと成長する。それまでのドストエフスキーは、才能はある作家ではあったが、何処にでもいる群小作家の一人に過ぎなかった。ドストエフスキーは、この10年間に、極寒の地・シベリアで、何を学んだのか。何が、ドストエフスキーを、群小作家の一人から世界の文学史に残るような「文豪ドストエフスキー」へと変えていったのか。ドストエフスキーは、シベリア流刑時代、「デカブリストの乱」で、夫たちが流刑の処分を受けた「デカブリストの妻たち」に 、護送途中に手渡された『聖書 』を、熟読した。『聖書 』以外は読むことを禁じられていたからだ。ドストエフスキーの文学は、獄中での聖書熟読によって成り立っている。
私は、西郷南洲にも同じことが言えると思う。西郷南洲もまた、絶海の孤島で、書物を熟読し、学問を極めることによって、「西郷吉之助」から「西郷南洲」へと成長して行く。もちろん、「西郷吉之助」もまた、藩主島津斉彬に、類まれな才能を見出され、江戸詰めの「薩摩藩お庭番」に取り立てらるような有能な青年武士だったかもしれない。しかし、「西郷吉之助」を「西郷南洲」に成長させたのは、5年間の「島流し時代」であり、その間に励んだ「学問」のお陰だった。西郷南洲には、「学問がない」のではなく、薄っぺらな、付け刃の「エセ学問」がないだけである。西郷南洲が、孤島の流刑生活で向きあった学問こそ 、ホンモノの学問だった。そこで身につけた学問こそが、「西郷南洲という思想」(江藤淳『南洲残影 』)であったはずだ。