2022年1月29日土曜日

小生は1月26日で、75歳になりました。2022/1/26。75歳。後期高齢者の仲間入りということです。ほとんど実感はありません。

小生は1月26日で、75歳になりました。2022/1/26。75歳。後期高齢者の仲間入りということです。ほとんど実感はありません。しかし、そうは言っても、節目は節目です。ささやかながら、近所のイタリアンレストランで、安いイタリア・ワインで祝杯をあげました。「サー頑張るぞ」というわけです。私は、高校の卒業式も大学の卒業式も、そして成人式も、あるいは還暦も古希も無縁だった。いずれも出席したたことも祝ったこともありません。今、75歳に際して、私は、我が人生の「節目」を、素直に祝う気になりました。「よく、ここまで生き延びて来たものだ」と。昔 、高校時代ですが、「北上夜曲」という歌が好きでした。そこに、こんな歌詞がありました、「僕は生きるぞ、生きるんだ〜」。実は 、私は、大学一年の時 、初めてKISSを体験しました。相手の女子学生に、「あなたは長くは生きられないわね」と言われました。病弱だったわけではありません。今にも死にそうな絶望的な顔をしていたからです。私も、「多分、そうだろうな」と思ったものです。私は、その頃、「絶望」という言葉が好きでした。吉本隆明が、「もっと深く絶望せよ」と言っていた頃です。キルケゴールの『死に至る病』やリルケの『マルテの手記』が愛読書でした。アルベール・カミュの『シジフォスの神話』には、「哲学の重要問題はただひとつしかなぃ。それは自殺だ」とありました。ところで、私に、生きる希望を与えてくれた、その女子学生は、再会を楽しみにしていたのですが、はるか昔に亡くなったようです。人生は不思議なものです。


今は亡き両親に感謝しつつ。

絶望から希望へ、75歳の再出発を、イタリア・ワインで祝う。

2022年1月5日水曜日

 ■本年度(2022)のYouTube動画の第一弾です。《安倍は終わった。さっさと隠退しろ!!!》


今年は、YouTube動画をもっと重視していきたいと思います。YouTube動画の役割は、政治評論だけではなく、文学評論や思想・哲学評論の分野でも、無視できないもの

になりつつあります。特に文芸評論は、文芸雑誌から姿を消してしまい、今や文芸雑誌は、芸能週刊誌レベルの御用雑誌=娯楽雑誌に転落=堕落して、文芸雑誌としての存在価値を失っています。YouTube動画で、文芸評論や思想・哲学評論もやっていこうと思います。今年は、『文芸思潮』という文芸雑誌から、『同人雑誌評』の連載を依頼されたので、やってみようと思っています。私は、今、文芸は、商業文芸雑誌ではなく、身銭をきって雑誌を刊行し、書きたいものを書き、発表する・・・という同人誌、同人雑誌にしかないと思っています。YouTube動画も、一種の同人雑誌的なものだと思います。

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山崎行太郎チャンネル

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https://youtu.be/v3QLos-078k

https://youtu.be/v3QLos-078k


■本年度(2022,令和四年)のYouTube動画の第二弾です。『「新自由主義」の哲学的源流(1)~ミルトン・フリードマンとロバート・ルーカス』。

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山崎行太郎チャンネル

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https://youtu.be/ThdEEcQToEY

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■YouTube動画の第三弾です。《「ヨシムラ」と「テレビ朝日」と「大阪維新の会」はグルだ。》


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山崎行太郎チャンネル

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https://youtu.be/y6iXcuN6xYU

https://youtu.be/y6iXcuN6xYU

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2022年1月2日日曜日

 あけましておめでとうございます。

(山崎行太郎)


2021年12月31日金曜日

 「新自由主義」の哲学的原点ーケインズ経済学と反ケインズ経済学の「大論争」について。フリードマンとルーカス。(3)


「新自由主義」という経済思想の登場は、ケインズとケインズ経済学への批判、超克に、重要なポイントがある。その道具として採用されたのが現代数学である。数学への過剰な信頼と思い込みが、現代数学理論を駆使すれば、なんでも理解出来るかのような「数学幻想論」が「新自由主義」の大きな学問的特質である。その代表がロバート・ルーカスである。

 ■「新自由主義」の哲学的原点ーケインズ経済学と反ケインズ経済学の「大論争」について。フリードマンとルーカス。(2)


不況や恐慌を前にすると、自由放任主義的な経済学は無力になる。「国家の介入」による景気回復の経済政策と経済学が要求される。逆に好景気や成長が続くと、「国家の介入」による規制や政策が批判され、自由主義的な経済学が盛り返す。これに国際政治的な要因(たとえばマルクス主義や共産主義の台頭)が加わると、この傾向は、さらに複雑になる。つまり、共産主義革命の脅威がある限り、資本主義=自由主義=民主主義陣営では、共産主義陣営と対抗するために、貧困対策や福祉政策や失業対策・・・などが必要だったが、ソ連崩壊や冷戦終結とともに、過剰な自由主義が主張されることになる。それが、いわゆる「新自由主義」である。それを数学を駆使して、理論的に定式化し、社会思想運動として主導したのがミルトン・フリードマンやロバート・ルーカスら、いわゆる「シカゴ学派」の面々である。彼等の当面の敵はケインズとケインズ経済学であった。ケインズ経済学は、マルクス主義経済学とは内容は異なるが、社会民主主義的な貧困対策、福祉対策があった。いわゆる「国家の介入」による景気回復政策である。シカゴ学派は、国家の介入による規制や政策を、あるいは過保護的な貧困対策や福祉政策を激しく攻撃し、「市場の自由」を主張した。現在、日本に蔓延っているのも、小泉純一郎や竹中平蔵や橋下徹等に象徴される「構造改革一派」も、この「新自由主義」の流れに追随するものである。「福祉政策批判(カット)」「弱者切り捨て」・・・は、竹中平蔵や橋下徹の考えた自前の思想ではない。シカゴ学派(「新自由主義」)の受け売り、モノマネにすぎない。竹中平蔵が、「私は《新自由主義者》ではない」「私は《弱者切り捨て論者》ではない」とシラが切れるのは、自分の頭で考えた思想ではないからだ。エピゴーネン(竹中平蔵、橋下徹、吉村洋文、ネットウヨ・・・)ほど危険なものはない。

 ■「新自由主義」の哲学的原点ーケインズ経済学と反ケインズ経済学の「大論争」について。フリードマンとルーカス。


竹中平蔵や竹中一派4人組(竹中平蔵、高橋洋一、岸博幸、原知史)、あるいは、今、話題の橋下徹や吉村洋文ら「維新」グループの経済政策の原点は、冷戦終結後、アメリカに登場した「ケインズ経済学批判」にある。その批判運動を先導したのはフリードマンとルーカスという経済学者である。彼等の経済学説の主要ポイントは、国家の介入を極力排除し、市場原理にまかせるという経済理論だ。つまり、経済学的な自由主義とは、国家による管理や統制を排除し、市場経済の自由な活動にまかせよ、というアダ・ムスイス的な、古典経済学的自由主義のことである。こういう「新自由主義」が台頭してきた背景には、ソ連崩壊とマルクス主義の終焉という思想的背景がある。つまり、フリードマンやルーカス、及びフリードマンを頭目とするシカゴ学派の経済学者たちは、「マルクス主義経済学」と「ケインズ経済学」の特徴である「国家の介入」「国家の管理・統制」、つまり「格差対策」や「貧民対策」「福祉政策」を含むケインズ経済学、目の仇にしており、それらを批判、超克することから始まる経済学なのだ。もう少し分かりやすく歴史的背景を説明すると、イギリス古典派経済学であり、「市場の自由にまかせろ」という自由放任主義であるアダム・スミスの時代、アダム・スミスの自由放任主義経済学がもたらした窮乏、貧民、格差に対して、それを救ううべくマルクスが登場する。マルクス主義経済学による「共産主義革命」という過激な革命思想が、時代背景もあって、革命前夜の様相を呈し、一世を風靡するこよになる。これに危機感を持った資本主義陣営の中から、ケインズが、「共産主義革命」を横取りするかのように、「ケインズ革命」を引っさげて登場するというわけだ。ケインズ革命の本質は、「国家の介入」による「需要の喚起」を重視するという反自由主義的な経済学だった。これまた資本主義陣営で、一世を風靡することになる。

2021年12月19日日曜日

■大阪駅前雑居ビル火災と心療内科と大阪維新の会。 大阪で、24名以上の死者を出した雑居ビル火災の報道を見ていて、即座に、私は、「大阪維新の会」を連想した。しかも、「大阪市長」の松井一郎は、行方不明(?》の状態らしく、いまだに、マスコミの前には登場して来ないらしい。大阪駅前雑居ビルの大火災である。大阪市長や大阪府知事らが、無関係であるはずがない。「消防法」上は問題なかったらしいが、それですむ問題ではなかろう。大阪市や大阪府を政治的に支配・管理する「維新の会」は、橋下徹大阪府知事以来、公務員批判を繰り返し、各種の公的組織を解体したり、縮小したりしてきたが、消防関係の組織縮小や人員削減はなかったのか、気にかかる。それにしても、「文通費100万円」などでは、朝から晩まで、マスコミに出まくっていた「維新の会」関係者だが、肝心な時に、特に大阪市長が、「行方不明」(?)とは、これ、いかに・・・。 ところで、「心療内科」とは何か。火災現場となった雑居ビル4fに入っていたのは、心療内科の「ビル診」だったらしいが、私には、「ピーン」と来るものがあった。「小泉・竹中改革」の頃から、心療内科と精神科の垣根が低くなり、実質的に同一化されている。このクリニックも繁盛していたらしいが、さらにマスコミの情報によると、院長の医師の評判もいいらしいが、私は、そこに疑問を感じる。つまり、心療内科と精神科の垣根を取り払うことによって、心療内科という口当たりのいい、ソフトな病気の患者として、病気でない健康な人達まで、病院(ビル診)に殺到することになった。その結果、ホンモノの精神病患者が大量に発生し、大量の「薬」が消費されることになった。つまり、「クスリ漬け」にするのである。おそらく、この「ビル診」スタイルの小綺麗なクリニックにも、健康な擬似病人とホンモノの精神病者が混在していたはずである。そもそも精神科や精神病院が、大阪駅前の雑居ビルにあるということがおかしいだろう。

 ■大阪駅前雑居ビル火災と心療内科と大阪維新の会。


大阪で、24名以上の死者を出した雑居ビル火災の報道を見ていて、即座に、私は、「大阪維新の会」を連想した。しかも、「大阪市長」の松井一郎は、行方不明(?》の状態らしく、いまだに、マスコミの前には登場して来ないらしい。大阪駅前雑居ビルの大火災である。大阪市長や大阪府知事らが、無関係であるはずがない。「消防法」上は問題なかったらしいが、それですむ問題ではなかろう。大阪市や大阪府を政治的に支配・管理する「維新の会」は、橋下徹大阪府知事以来、公務員批判を繰り返し、各種の公的組織を解体したり、縮小したりしてきたが、消防関係の組織縮小や人員削減はなかったのか、気にかかる。それにしても、「文通費100万円」などでは、朝から晩まで、マスコミに出まくっていた「維新の会」関係者だが、肝心な時に、特に大阪市長が、「行方不明」(?)とは、これ、いかに・・・。

ところで、「心療内科」とは何か。火災現場となった雑居ビル4fに入っていたのは、心療内科の「ビル診」だったらしいが、私には、心療内科と聞いて、「ピーン」と来るものがあった。「小泉・竹中改革」の頃から、心療内科と精神科の垣根が低くなり、実質的に同一化されている。60過ぎの初老の男に放火された、このクリニックも、例によって、繁盛していたらしいが、さらにマスコミの情報によると、院長の医師の評判もいいらしいが、私は、そこに疑問を感じるのだ。つまり、心療内科と精神科の垣根を取り払うことによって、心療内科という口当たりのいい、ソフトな病気の患者として、病気でない健康な人達まで、病院(ビル診)に殺到することになった。それが「小泉・竹中改革」以後の風景である。その結果、ホンモノの精神病患者が大量に発生し、正確に言えば、精神病患者が、「心療内科医」によって粗製濫造され、大量の「薬」が消費されることになった。つまり、病弱だが、実は健康な人間を「クスリ漬け」にすることによって、ホンモノの精神病患者が偽造されたのである。おそらく、この「ビル診」スタイルの小綺麗なクリニックにも、健康な擬似病人とホンモノの精神病者が混在していたはずである。そもそも精神科や精神病院が、大阪駅前の雑居ビルにあるということがおかしいだろう。