存在論としての漱石論(11)
(本稿は、『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。完成稿は『月刊日本』でお読みください。)
前にも書いたが、私は、小さ頃は、「文学」も「読書」も「図書館」も嫌いであった。嫌いというより、激しく軽蔑し、むしろ憎悪さえしていた。私は、その屈折した自分の心理構造がよく分からなかったが、高校時代、遅ればせながら、大江健三郎や小林秀雄やドストエフスキーなどを読むようになって、ぼんやり分かってきた。私は、「文学」や「読書」などが嫌いなのではなく 、ニセモノの文学やニセモノの読書が嫌いだったのだ、と。たとえば、私は、大宰治や太宰治フアンが嫌いだった。現在でいえば、私は、村上春樹や村上春樹フアンが大嫌いである。そういう状態にあった頃、私は江藤淳を読むようになった。江藤淳の文章も文体も、私には、心地よかった。たとえば、江藤淳は、この問題を的確に、『 夏目漱石』論で、書いている。
《 文学青年という人種が軽蔑されるのも、結局は、現実にありもしない亡霊を信仰しているからであって、健康な生活人の感覚が自然にそのようなからくりに反発を覚えるのである。》(江藤淳『 夏目漱石』)
江藤淳の漱石論のメイン・テーマは、「文学批判」である。この「文学青年批判」の文章は、その入口である。では、江藤淳の描く夏目漱石は、どういう文学者なのか。どういう作家なのか。普通の作家ではないのか。江藤淳は、漱石を、他の作家達とは違うと考える。では、漱石と他の作家達との間にある「断絶」と「距離」は、何処にあるのか。江藤淳に言わせれば 、漱石は、文学を否定する文学者でった。ここが、凡庸な文学者達と決定的に違うところであった。
《 そこで、批評とは多くの場合文学否定というかたちをとってあらわれる文学であり、批評家の思想とは思想否定というかたちをとって語られる思想だ 、という逆説が生じる。ここでいう文学否定は、勿論新文学による旧文学の否定ではない。思想否定もまた新思想による旧思想の駆逐ではない。新しい文学や思想をささえるのは、むしろ文学者の願望である。彼は既成文学にあきたりないだけで、文学そのもの、思想そのものについては依然としてこれを信頼しつづけている。彼はスタンダールが体験したような認識上の冒険とは無縁である 》(「批評について」)
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