2021年10月22日金曜日

■あなたは「ダッピ」を知ってますか。 ダッピ(DAPPI)こそ「ネットウヨ」の親玉だったのか。なるほど、なるほど。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花・・・」というわけか。 自民党や安倍晋三をひたすら絶賛・擁護し、立憲や野党を罵倒し、誹謗中傷し続けるネットウヨ系ネット工作員がいたらしい。立憲の「小西ひろゆき議員」や「杉尾秀哉議員」に関して、デマ情報(フェイクニュース)を流し続けたとして、両氏が反撃に出て、その発信元の「ダッピ(DAPPI)」の正体を突き止めたらしい。たまには立憲民主党もやるじゃないか。ダッピの正体を探って行くと、その先に、自民党や自民党本部の幹部の名前まで出てきたらしい。ダッピって、自民党お傭いのネット工作員というかネット工作会社だったらしい。まー、そんなことだろうと予想はしてましたけどね・・・(笑)(笑)(笑)。

 ■あなたは「ダッピ」を知ってますか。


ダッピ(DAPPI)こそ「ネットウヨ」の親玉だったのか。なるほど、なるほど。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花・・・」というわけか。

自民党や安倍晋三をひたすら絶賛・擁護し、立憲や野党を罵倒し、誹謗中傷し続けるネットウヨ系ネット工作員がいたらしい。立憲の「小西ひろゆき議員」や「杉尾秀哉議員」に関して、デマ情報(フェイクニュース)を流し続けたとして、両氏が反撃に出て、その発信元の「ダッピ(DAPPI)」の正体を突き止めたらしい。たまには立憲民主党もやるじゃないか。ダッピの正体を探って行くと、その先に、自民党や自民党本部の幹部の名前まで出てきたらしい。ダッピって、自民党お傭いのネット工作員というかネット工作会社だったらしい。まー、そんなことだろうと予想はしてましたけどね・・・(笑)(笑)(笑)。え

2021年10月9日土曜日

■江藤淳はサルトルの『ボードレール』から何を学んだか。 江藤淳は、サルトルの影響を受けているが、サルトルについて多くを語っていない。そこから、江藤淳はサルトルを読んでいないのではないかとか、サルトルを理解していないのではないか、とかいう解釈が大手を振ってまかり通ることになる。私は、別に、ここで、江藤淳はサルトルを熟読し、サルトルの文学や哲学を正確に理解していたなどと言うつもりはない 。学者や研究者か、あるいは野次馬的な文学愛好者や哲学愛好者なら、そいうことが問題になるだろう。しかし、江藤淳は、仏文学者でも、サルトル研究者でもない。ましてや文学愛好者でも哲学愛好者でもない。江藤淳は批評家であるり文学者、つあり創作者である。問題は、それらを、どれだけ「血肉化」したか、あるいは「内在化」したか、さらに言えば、どれだけ「作品化」に成功したかだけが問題になる。江藤淳は、サルトルの『嘔吐』を読んで「ヒント」を得たと言っている。『ボードレール』を読んで、影響を受けたと言っている。さらに、サルトルがあまり好きではなかった、とも言っている。江藤淳は、慶應仏文科で仏文学を専攻するつもりで、慶應文学部に進学したにもかかわらず、若い英語教師・藤井昇の勧めで、あっさりと慶應英文科へと転向している。ここらあたりで、何か大きな変化=回心があったのかもしれない。それは、「死ぬこと」からか「生きる」ことへの転向=回心だったのかもしれない。江藤淳は、この頃、まだ病臥に臥しており、大学も休学が続き、挙句に「自殺未遂事件」まで起こしている。そういう悲惨な、絶望的な状況にあった時、江藤淳宅を、見舞いに訪れたのが「藤井昇先生」だった。 《 今から振り返ってみると、昭和二十九年八月半ばから九月にかけての1ヶ月余りのあいだに、 私のなかで 確実になにかが一回転したように思われる。そのときから私は、それまでとは違った方向へ歩きはじめた。(中略)藤井昇先生が、私を見舞いに来て下さったのは、ちょうどそのころのことである。 》

 ■江藤淳はサルトルの『ボードレール』から何を学んだか。


江藤淳は、サルトルの影響を受けているが、サルトルについて多くを語っていない。そこから、江藤淳はサルトルを読んでいないのではないかとか、サルトルを理解していないのではないか、とかいう解釈が大手を振ってまかり通ることになる。私は、別に、ここで、江藤淳はサルトルを熟読し、サルトルの文学や哲学を正確に理解していたなどと言うつもりはない 。学者や研究者か、あるいは野次馬的な文学愛好者や哲学愛好者なら、そいうことが問題になるだろう。しかし、江藤淳は、仏文学者でも、サルトル研究者でもない。ましてや文学愛好者でも哲学愛好者でもない。江藤淳は批評家であるり文学者、つあり創作者である。問題は、それらを、どれだけ「血肉化」したか、あるいは「内在化」したか、さらに言えば、どれだけ「作品化」に成功したかだけが問題になる。江藤淳は、サルトルの『嘔吐』を読んで「ヒント」を得たと言っている。『ボードレール』を読んで、影響を受けたと言っている。さらに、サルトルがあまり好きではなかった、とも言っている。江藤淳は、慶應仏文科で仏文学を専攻するつもりで、慶應文学部に進学したにもかかわらず、若い英語教師・藤井昇の勧めで、あっさりと慶應英文科へと転向している。ここらあたりで、何か大きな変化=回心があったのかもしれない。それは、「死ぬこと」からか「生きる」ことへの転向=回心だったのかもしれない。江藤淳は、この頃、まだ病臥に臥しており、大学も休学が続き、挙句に「自殺未遂事件」まで起こしている。そういう悲惨な、絶望的な状況にあった時、江藤淳宅を、見舞いに訪れたのが「藤井昇先生」だった。


《 今から振り返ってみると、昭和二十九年八月半ばから九月にかけての1ヶ月余りのあいだに、 私のなかで  

確実になにかが一回転したように思われる。そのときから私は、それまでとは違った方向へ歩きはじめた。(中略)藤井昇先生が、私を見舞いに来て下さったのは、ちょうどそのころのことである。》

2021年10月8日金曜日

■藤田東湖と西郷南洲。ー実存と思想ー⑵ 藤田東湖は、華々しい、劇的な「死」を死んだわけではない。江戸の街を襲った「安政の大地震」で、落ちてきた梁の下敷きになって、あっけなく死んでしまった。藤田東湖にふさわしくないような死に方であった、と私も思う。「桜田門外の変」や「天狗党の乱」で、劇的な死に方をした藤田東湖の後継者や弟子たちの死にくらべて、あるいは「西南戦争」で薩摩の城山の露と消えた西郷南洲の死に方にくらべて、実に平凡、凡庸な死に方であった。しかし、それは表面的なことにすぎない。藤田東湖もまた、劇的な死を、「思想家」、「学者」、「革命家」として死んだのである。後に続く革命家たちの「蜂起」や「斬死」「斬首」・・・を見殺しにしたわけでもなく、そこから逃げだしたわけでもない。そもそも、水戸学は 「革命思想」であり、革命を目指す「実践的革命哲学」であった。体制擁護の御用学問でしかない現代の右翼思想や保守思想とは対極にある思想だった。その「革命哲学としての水戸学」の中心人物が 、藤田幽谷=藤田東湖父子だった。私は、この連載の第一回目で、「三決死か而不死(三たび死を決して而も死せず)」という『回天詩史』の冒頭の文章(漢詩)を紹介したが、実は、そこでも中心テーマになっているのは「死」であった。「三たび死を決して而も死せず」。

 ■藤田東湖と西郷南洲。ー実存と思想ー⑵


藤田東湖は、華々しい、劇的な「死」を死んだわけではない。江戸の街を襲った「安政の大地震」で、落ちてきた梁の下敷きになって、あっけなく死んでしまった。藤田東湖にふさわしくないような死に方であった、と私も思う。「桜田門外の変」や「天狗党の乱」で、劇的な死に方をした藤田東湖の後継者や弟子たちの死にくらべて、あるいは「西南戦争」で薩摩の城山の露と消えた西郷南洲の死に方にくらべて、実に平凡、凡庸な死に方であった。しかし、それは表面的なことにすぎない。藤田東湖もまた、劇的な死を、「思想家」、「学者」、「革命家」として死んだのである。後に続く革命家たちの「蜂起」や「斬死」「斬首」・・・を見殺しにしたわけでもなく、そこから逃げだしたわけでもない。そもそも、水戸学は 「革命思想」であり、革命を目指す「実践的革命哲学」であった。体制擁護の御用学問でしかない現代の右翼思想や保守思想とは対極にある思想だった。その「革命哲学としての水戸学」の中心人物が 、藤田幽谷=藤田東湖父子だった。私は、この連載の第一回目で、「三決死か而不死(三たび死を決して而も死せず)」という『回天詩史』の冒頭の文章(漢詩)を紹介したが、実は、そこでも中心テーマになっているのは「死」であった。「三たび死を決して而も死せず」。

2021年10月7日木曜日

■昨日は『維新と興亜』の座談会ということで 、久しぶりに、都心部に出かけた。指定された場所は、日比谷高校の隣にある「星稜会館」の近辺ということで安心していたが 、当日になり、「星稜会館」なら何回も行ったことがあるが、しかし新しい建物らしいので、ちょっと不安になったので、早めに出かけることにした。地下鉄の永田町駅を降りたが、方向感覚がまったくわからない。しばらくスマホのグーグルマップをいじっていると、警備中の警官が近ずいてきた。この周辺は、国家の中枢機関が集中しているところなので、警備が厳しいのだ。国会議事堂、首相官邸、衆参議長公邸、議員会館など・・・。いたるところに警官が立っている。その警備中の警官が・・・。「???」。「何か、お探しですか?」といううわけだろう。いつもなら、「うるせー」とつぶやきつつ、即座に立ち去るところだが、今回は、さすがに、警官のやさしい雰囲気に引き込まれて、「日比谷高校と星稜会館は、どの道を・・・」と聞いてしまった。ああ、やはり、私は、70過ぎの「立派な老人」(笑)なのだ、と自覚した瞬間であった。警官は、「こちらに地図が・・・」と言いつつ、私を案内して、地図の書いた看板まで連れていってくれた。警官は、詳しく、何回も何回も道筋を教えてくれた。もういいよ、というぐらいに。というわけで、私は、以前、何回も立ち寄ったことのあるカフェが見つかったので、そのカフェで時間をつぶし、また早めに、目的の場所へ向かった。少し時間があったので、江藤淳先生の母校、日比谷高校を見学することにした。警官の言った通りに、細い路地を歩いていると、学校らしき建物が見えてきた。同時に、子供たちの声も聞こえてきた。日比谷高校は、坂道をくだったところの、小さな丘の上にあった。この門が、正門なのか裏門なのかわからないが、一応、日比谷高校のプレートがあったので、記念写真をパチリ。「江藤淳と日比谷高校」。平山周吉の『江藤淳は甦る』を読んで以来 、「江藤淳と日比谷高校」というテーマが頭から離れなくなっている。言うまでもなく 、私は、日本一の受験進学校としての日比谷高校に興味があるわけではない。あくまでも、江藤淳の通った日比谷高校に興味があるのだ。肺病病みの高校生・江頭敦夫( 江藤淳の本名 )が、多感な高校時代を過ごした日比谷高校に・・・。(後で、ネットで調べてみたら、こちらの門は、正門ではなく通用門、つまり裏門でした。)

■昨日は『維新と興亜』の座談会ということで 、久しぶりに、都心部に出かけた。指定された場所は、日比谷高校の隣にある「星稜会館」の近辺ということで安心していたが 、当日になり、「星稜会館」なら何回も行ったことがあるが、しかし新しい建物らしいので、ちょっと不安になったので、早めに出かけることにした。地下鉄の永田町駅を降りたが、方向感覚がまったくわからない。しばらくスマホのグーグルマップをいじっていると、警備中の警官が近ずいてきた。この周辺は、国家の中枢機関が集中しているところなので、警備が厳しいのだ。国会議事堂、首相官邸、衆参議長公邸、議員会館など・・・。いたるところに警官が立っている。その警備中の警官が・・・。「???」。「何か、お探しですか?」といううわけだろう。いつもなら、「うるせー」とつぶやきつつ、即座に立ち去るところだが、今回は、さすがに、警官のやさしい雰囲気に引き込まれて、「日比谷高校と星稜会館は、どの道を・・・」と聞いてしまった。ああ、やはり、私は、70過ぎの「立派な老人」(笑)なのだ、と自覚した瞬間であった。警官は、「こちらに地図が・・・」と言いつつ、私を案内して、地図の書いた看板まで連れていってくれた。警官は、詳しく、何回も何回も道筋を教えてくれた。もういいよ、というぐらいに。というわけで、私は、以前、何回も立ち寄ったことのあるカフェが見つかったので、そのカフェで時間をつぶし、また早めに、目的の場所へ向かった。少し時間があったので、江藤淳先生の母校、日比谷高校を見学することにした。警官の言った通りに、細い路地を歩いていると、学校らしき建物が見えてきた。同時に、子供たちの声も聞こえてきた。日比谷高校は、坂道をくだったところの、小さな丘の上にあった。この門が、正門なのか裏門なのかわからないが、一応、日比谷高校のプレートがあったので、記念写真をパチリ。「江藤淳と日比谷高校」。平山周吉の『江藤淳は甦る』を読んで以来  、「江藤淳と日比谷高校」というテーマが頭から離れなくなっている。言うまでもなく 、私は、日本一の受験進学校としての日比谷高校に興味があるわけではない。あくまでも、江藤淳の通った日比谷高校に興味があるのだ。肺病病みの高校生・江頭敦夫( 江藤淳の本名 )が、多感な高校時代を過ごした日比谷高校に・・・。(後で、ネットで調べてみたら、こちらの門は、正門ではなく通用門、つまり裏門でした。)


■ノーベル賞騒動を嗤う。 毎年、毎年、そんなに「天才科学者」が出るわけないだろう。米国籍の日本人が 、ノーベル物理学賞かなんかを受賞したということで、大騒ぎしているが、実にクダラナイ。最近の日本人は好奇心を失っているとか、「御説教」しているらしいが、何が「好奇心」だよ。Mとかいうノーベル賞受賞者の顔を見ればわかる。小林秀雄は「顔だよ、顔!」といったらしいが、まさに至言である。いつもそうだが、今回のノーベル賞受賞者も 、一般庶民的な俗物そのものの顔をしているじゃないか。下司な俗物根性が顔に出ているのだ。ノーベル賞を受賞したぐらいで、すぐ、調子に乗って、田舎のクソオヤジ・・・レベルの「御説教」をするような「俗物」は、さっさと消えろ、と言いたい。

 ■ノーベル賞騒動を嗤う。


毎年、毎年、そんなに「天才科学者」が出るわけないだろう。米国籍の日本人が 、ノーベル物理学賞かなんかを受賞したということで、大騒ぎしているが、実にクダラナイ。最近の日本人は好奇心を失っているとか、「御説教」しているらしいが、何が「好奇心」だよ。Mとかいうノーベル賞受賞者の顔を見ればわかる。小林秀雄は「顔だよ、顔!」といったらしいが、まさに至言である。いつもそうだが、今回のノーベル賞受賞者も 、一般庶民的な俗物そのものの顔をしているじゃないか。下司な俗物根性が顔に出ているのだ。ノーベル賞を受賞したぐらいで、すぐ、調子に乗って、田舎のクソオヤジ・・・レベルの「御説教」をするような「俗物」は、さっさと消えろ、と言いたい。

2021年10月3日日曜日

9月から10月へ。早いものです。今年も10月ですか。まあ、ノンビリやりましょう。今朝は、雨模様だったので、愛車のミニサイクルで出かけることは無理。仕方なく、第二の愛車、軽自動車で出かける。早朝のドライブも面白い。車道には、車はほとんどいない。コンビニで、100円のコーフィーを買って、車内で飲むことにする。私は、コーフィーの味など、どうでもいいので、もっぱら100円のホット・コーフィーで満足。今日は車なので、早朝の散歩とはいえ、ちょっと遠出ででもしようかな、と思い、外環道の下を走る荒川を横断する普通道に。ちょっとした高速道の気分だ。ああ、そういえば、免許の更新が迫っている。先日、警察で認知症の検査があり、無事、そちらの方は合格したが、次は実地検査や視力検査などが待っている。前回の視力検査では、ギリギリ合格だったが、今回は、もう無理かもしれないと、ちょっと不安になる。眼鏡を新調しても、視力は上がりそうもない。白内障かもしれない。これから、ますます、車が必要になるのに・・・。「ヒロシです」のボッチ・キャンプに対抗して、スズキ・ジムニーで「老人ソロ・キャンプ」(笑)を・・・。車中泊も・・・。頑張ろう(笑)。

 9月から10月へ。早いものです。今年も10月ですか。まあ、ノンビリやりましょう。今朝は、雨模様だったので、愛車のミニサイクルで出かけることは無理。仕方なく、第二の愛車、軽自動車で出かける。早朝のドライブも面白い。車道には、車はほとんどいない。コンビニで、100円のコーフィーを買って、車内で飲むことにする。私は、コーフィーの味など、どうでもいいので、もっぱら100円のホット・コーフィーで満足。今日は車なので、早朝の散歩とはいえ、ちょっと遠出ででもしようかな、と思い、外環道の下を走る荒川を横断する普通道に。ちょっとした高速道の気分だ。ああ、そういえば、免許の更新が迫っている。先日、警察で認知症の検査があり、無事、そちらの方は合格したが、次は実地検査や視力検査などが待っている。前回の視力検査では、ギリギリ合格だったが、今回は、もう無理かもしれないと、ちょっと不安になる。眼鏡を新調しても、視力は上がりそうもない。白内障かもしれない。これから、ますます、車が必要になるのに・・・。「ヒロシです」のボッチ・キャンプに対抗して、スズキ・ジムニーで「老人ソロ・キャンプ」(笑)を・・・。車中泊も・・・。頑張ろう(笑)。

■サルトルは、『ボードレール』を、どう描いているか。 サルトルは、『ボードレール』について、 《父親が死んだ時、ボードレールは六歳だった》 と書くことから始めている。そして、さらに、こう書いている、 《一九二八年十一月、これほど愛していた母が、ある軍人と再婚した。ボードレールは寄宿舎に入れられた。この時期から、彼の有名な『ひび』が始まる。》 まさに、サルトルの描くボードレールの生涯は、ここから始まると言っていいだろう。そして、おそらく、江藤淳が、敏感に反応したのもこの部分であろう。ここから始まるサルトルの『ボードレール』の「実存的精神分析」は、江藤淳にとって、理論や知識として、あるいは教養や学問的方法論としての「実存的精神分析」ではなく、文字通り、自分自身の存在の精神分析だった。江藤淳自身が、幼くして(4歳)、母親と死別し、その後、父親は再婚している。ボードレールとは、母親と父親の違いはあるが、複雑な人間関係の中に放り出され、そてが文学へ向かう転機になったことは共通している。ちなみに、サルトルも、6歳で父親と死別し、母親が直ぐに再婚している。おそらく、その意味で、サルトルの『ボードレール』論は、「サルトル論」そのものだと言っていいかもしれない。したがって、サルトルの『ボードレール』を読んだ江藤淳が、深く思うところがあったのは、単に実存的精神分析という新理論に導かれたというより 、もっと切実なものだったのである。サルトルやサルトル哲学、あるいは実存主義や実存主義的精神分析というものを、単に知識や教養として学んだものと、自分自身の存在の問題として、つまり、内的体験として学んだものとの間には、大きな違いがある。当時は、そしていまでも、サルトルや実存主義について多くの文章が書かれ、多くの書籍が刊行されているが、ほとんど、見る影もなく消え去っている。それたは、後世に残すに足りないからだ。そこへいくと、江藤淳の『夏目漱石』論は、サルトルや実存主義、あるいは実存的精神分析などとい言葉への言及はないが、今でも充分に読む価値がある。その違いは何か。知識や教養として学んだもの(サルトル体験)と、内的体験を通じて学んだもの(サルトル体験)との違いである。 (写真は、ロシア、サンクト・ペテルブルク。エカテリーナ宮殿、前庭で。)

 ■サルトルは、『ボードレール』を、どう描いているか。


サルトルは、『ボードレール』について、

《父親が死んだ時、ボードレールは六歳だった》

と書くことから始めている。そして、さらに、こう書いている、

《一九二八年十一月、これほど愛していた母が、ある軍人と再婚した。ボードレールは寄宿舎に入れられた。この時期から、彼の有名な『ひび』が始まる。》

まさに、サルトルの描くボードレールの生涯は、ここから始まると言っていいだろう。そして、おそらく、江藤淳が、敏感に反応したのもこの部分であろう。ここから始まるサルトルの『ボードレール』の「実存的精神分析」は、江藤淳にとって、理論や知識として、あるいは教養や学問的方法論としての「実存的精神分析」ではなく、文字通り、自分自身の存在の精神分析だった。江藤淳自身が、幼くして(4歳)、母親と死別し、その後、父親は再婚している。ボードレールとは、母親と父親の違いはあるが、複雑な人間関係の中に放り出され、そてが文学へ向かう転機になったことは共通している。ちなみに、サルトルも、6歳で父親と死別し、母親が直ぐに再婚している。おそらく、その意味で、サルトルの『ボードレール』論は、「サルトル論」そのものだと言っていいかもしれない。したがって、サルトルの『ボードレール』を読んだ江藤淳が、深く思うところがあったのは、単に実存的精神分析という新理論に導かれたというより 、もっと切実なものだったのである。サルトルやサルトル哲学、あるいは実存主義や実存主義的精神分析というものを、単に知識や教養として学んだものと、自分自身の存在の問題として、つまり、内的体験として学んだものとの間には、大きな違いがある。当時は、そしていまでも、サルトルや実存主義について多くの文章が書かれ、多くの書籍が刊行されているが、ほとんど、見る影もなく消え去っている。それたは、後世に残すに足りないからだ。そこへいくと、江藤淳の『夏目漱石』論は、サルトルや実存主義、あるいは実存的精神分析などとい言葉への言及はないが、今でも充分に読む価値がある。その違いは何か。知識や教養として学んだもの(サルトル体験)と、内的体験を通じて学んだもの(サルトル体験)との違いである。


(写真は、ロシア、サンクト・ペテルブルク。エカテリーナ宮殿、前庭で。)