2021年5月16日日曜日

 『山崎行太郎公式ブログ「毒蛇山荘日記」 』

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■日比谷高校時代の江藤淳について。(『江藤淳とその時代 (5)』草稿)


柄谷行人が、江藤淳の「日比谷高校時代」について、「追悼文」で、面白いことを書いている。

《七0年代に、江藤淳を通して、彼を若い時から知っている人たちと知り合いになったが 、たとえば、日比谷高校で江藤淳と同級生だった小説家の故柏原兵三は、江藤淳が学生大会でストライキに反対して演説し、ストをつぶしたと語った。あの温厚な柏原兵三がかなり激しくその時の恨みを語ったので、驚いた記憶がある。(余談だが、彼は、江藤淳は抜群に優秀であったのに数字だけがまったくだめだだったともいっていた。三島由紀夫もそうであっただけに、私はそれを興味深く思う。)そうだとすると、一九六0年前後に江藤淳が「転向」したというのは、錯覚だといわねばならない。彼自身が認めているように、湘南中学時代にマルクス主義的であったことが確かだとしたら、日比谷高校に移る時点で変わったということができる。しかし、そう簡単ではない。それなら、先行世代に江藤淳を左翼だと思いこませたようなラディカルな著作を、どう説明するのか。》(柄谷行人『江藤淳と私』文学界『』)


柄谷行人は、伝聞ながら、日比谷高校時代の江藤淳についてその雄姿を伝えると同時に、江藤淳の『ラディカルさ』、つまり思考や行動のラディカリズムについても描いている。日比谷高校時代のこの学生大会の様子については、作家の坂上弘も書いている。


作家の坂上弘は、日比谷高校時代の江藤淳の後輩になる。江藤淳が三年の時  

坂上弘は一年生だったらしい。坂上弘も、学生大会での江藤淳のこと覚えているという。

《 が、私たち後輩をもっともおどろかせたのは、生徒会での理路整然たる雄弁だった。彼は 、いつも戦災でくずれかかった大講堂の一番上から手を上げ、壇上まで駆け下りてきた。江頭淳夫少年一人に、左翼がかった自治会少年や教師たちが、その弁舌で蹂躙されていた。これはその後語らい草になっていた。》(坂上弘

「昭和三十年五月のこと」)