Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
2021年8月20日金曜日
2021年8月16日月曜日
2021年8月14日土曜日
2021年8月13日金曜日
1 時間前
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山崎行太郎yamazakikoutarou
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1 時間前
42 分前
2021年8月6日金曜日
■再び「江藤淳の原点=十条仲原」について。
■再び「江藤淳の原点=十条仲原」について。
前回に続いて 、再び「江藤淳の原点=十条仲原」について考えてみたい。どうしても解けない謎が残っているからである。江藤淳は、日比谷高校を卒業して、現役で、慶應義塾大学文学部に進学している。東大受験に落第し、合格した慶應義塾大学に進学したと書いている。私が分からないのは、その後、日比谷高校の職員室に恩師を訪ねて、慶應の真新しい制服制帽姿で、慶應進学を報告に行ったと、自筆年譜その他に書いているところだ。その時の「君も案外、伸びなかったね」という恩師の冷たい反応(言葉)に、江藤淳は激怒し、二度と母校=日比谷高校を訪問していない、と書いているところだ。しかし、「東大合格者数日本一」を誇る日比谷高校の職員室だ。恩師とはいえ、「東大合格者数」という数字( 売り上げ )に身命を注ぐ企業戦士である。所詮、サラリーマンなのである。恩師の反応は、充分 、予想されたことだろう。江藤淳は予想していなかったのだろうか。そこが不思議なところだ。そこが謎なのだ。
私は、その頃、江藤淳の最大の関心事が、つまり最大の人生論的目標が、「東大合格」という点にはなかったということではないかと思う。では、最大の関心事は何だったのか。それは、やはり北区十条仲原時代の「貧乏生活」と「屈辱」と「絶望」にあったのではないか。その「貧乏生活」と「屈辱」と「絶望」から抜け出すことこそ、その頃の人生論上の最大の関心事だったのではないか。「東大合格」では、そこから抜け出すことは出来ないと、その頃の江藤淳は考えていたのではないか。言い換えれば、江藤淳の「絶望感」と「屈辱感」は、あまりにも重く、深かったのではないか。受験勉強的価値観や日比谷高校的価値観では乗り越えられないような深い絶望と屈辱の中で、悶え苦しんでいたのだろう。
私の解釈によると 、江藤淳にとって、「慶應進学」とは、何がなんでも、 東大でなければならないと、東大合格を目差して、一浪しても二浪してもと、ガリ勉に励む優等生たちに対する勝利宣言だった。だからこそ、日比谷高校の恩師たちの元に、「慶應進学」の報告に出向いたのではないか。
私は、ここで、江藤淳の数少ない思想的盟友ともも言うべき詩人=文芸評論家の吉本隆明の「もっと深く絶望せよ」という言葉を思い出す。江藤淳は、「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・とは、もっとも無縁な文学者だというのが一般的な印象ではないだろうか。「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・という言葉が好きな文学青年や文学愛好者たちには、江藤淳の「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・の深さや重さは、理解不可能であろう。おそらく、吉本隆明や柄谷行人ぐらいしか理解できないものだった。
2021年7月30日金曜日
2021年7月28日水曜日
■商業文芸誌の書き手の中心は、何故 、文藝評論家から「ライター」にとって代わられたのか。
いつの頃だろうか、多くの有能な文芸評論家たちが、商業主義文芸誌から消えた。文芸誌は、商業主義を追求するあまり、文学の原点を忘れ 、「売り上げ」が文学の基準になり、結果的に文学は、商業主義を追求するあまり、商業的にも衰退し、文学自体も社会的に地盤沈下し、存在意義を失っていった。つまり、文学の重要な存在根拠だった「文芸評論家」が、文芸誌や文壇から排除され 、追放されることによって、文学は衰退していったと言っていい。何故か。ここに、現代日本の文化的貧困化、文化的窮乏化の具体的な見本があると、私は思っている。文芸評論家には、曲がりなりにも「批評」があった。批評とは何か。文学批判や小説批判の能力である。批評的思考力である。しかし、ライターにはそれがない。ライターには、文学や小説を批判したり、批評したり、否定する能力はない。「御用学者」的なゴマすり 、それがライターである。私は、「ライター」という言葉を冷笑的に、侮蔑的に使っている。
たとえば、「武田砂鉄」という「ライター」がいるが、商業文芸誌「文学界」や「すばる」に、コラムを連載している。何故、武田砂鉄のようなライターが、文芸誌に連載を持っているのか、私には不可解だが・・・。その「ライター武田砂鉄」が、「LGBT騒動」について、「水を得た魚」のように積極的に発言している。なるほど、「誰もが否定出来ない」正論である と思う。しかし、こういう小市民的な、人畜無害の「正論すぎる正論」を自信満々に書き続け、掲載することが 、文芸誌の主要な役割で あろうか。私は、「編集者」というサラリーマンが、こういう凡庸な「正論」に傾きがちなことは仕方がないと思う。こういう時のために、「編集者」たちが飼い慣らしておいたのが、自分たちの人畜無害の「エセ正論」を代弁してくれる、いわゆる「御用ライター」なのだろうか。どうもそういう気がする。