売国奴=竹中平蔵を政権中枢から追い出せ!街宣、2021-2-20。
新宿駅西口小田急前。(甲斐正康氏その他)。
その「Youtube動画」(撮影=森哲子氏)です。
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
竹中平蔵は「経済音痴」。竹中平蔵式改革で、成功した試しはゼロ。竹中平蔵とパソナが、ブクブクと、醜く、「焼け太り」するだけ。国民は 餓死寸前。青年たちは次々と自殺。
誰が、こんな国にしたのか。
またまた第三次補正予算に組み込まれた「中小企業改革・・・」で、巨大利権がパソナに決定。中小企業をつぶして、パソナと竹中平蔵が焼け太り。
吸血鬼・竹中平蔵。ドラキュラも真っ青。
スガ政権と竹中平蔵は一心同体のようです。国民の生き血をすするスガ政権、売国企業パソナ、守銭奴・竹中平蔵を、国民の手でつぶしましょうう。
その前に、スガを・・・。
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明日、2月20日(土曜日) 、午後3時〜。新宿駅小田急前で、『竹中平蔵糾弾デモ ・街頭演説会』が行われるそうです。全員集合。日本国民よ、立ち上がれ。竹中平蔵に「天誅」を。
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藤田東湖と水戸学派(2)
水戸学派と一口に言うが、水戸学派の歴史は短くない。水戸学派の歴史は、二代目藩主・水戸光圀(水戸黄門)に始まる前期水戸学と幕末に隆盛を極める後期水戸学にわかれる。藤田幽谷や藤田東湖は、後期水戸学を代表する学者、思想家である。西郷が、藤田東湖を通じて「心酔」したのは、「尊皇攘夷」思想や「国体」思想を主張して、幕末の思想を主導した、過激化した後期水戸学であった。
『回天詩史』における藤田幽谷・東湖父子の「イギリス船員皆殺し」の会話の場面は、後期水戸学を象徴する場面のようにみえる。面白いので、ちょっと詳しくみてみよう。『 回天詩史』の冒頭に、次のように記している。
《 余は融通のきかぬ愚か者で、幕府に罪に問われ、家に閉じこもって謹慎を守っていたが、そのおり静かに過去を振りかえってみるに、死を決意して、しかも死ななかったことがこれまでにすべて三度あった。》
藤田東湖の『 回天詩史』はこういう文章で始まっているが、ここで、「死を決意して・・・」という言葉に注目しよう。藤田東湖の思想の本質が、さらには水戸学派の思想の本質が現れているからだ。そこで、その「死を決意」した最初が、一九歳の時のイギリス船員の「皆殺し」を決意する場面だったというわけである。父・藤田幽谷が息子に与えた言葉が 、面白い。
《 最近、毎年のように外夷が近海をうかがい、ときには大砲をとどろかせてわが人民をふるえあがらせており、その傲慢無礼はたとえようもない。しかるに世間の者は引っ込み思案で、事なかれ主義を好んでおられるから 、ひょっとしたら放還方針をとり、一時のがれの平穏を保とうとするのじゃないかと、わしはそれを恐れる。そんな結果になろうものなら、この堂々たる神州に具眼の士は一人もいないことになる。わしはそれがはずかしくてならん。おまえは急いで大津村に行け。こっそり情勢を見て、もし放還方針が決まったことがはっきりしたら、まっしぐらに異人の小屋にとびこみ、腕をふるって奴らを皆殺しにせい。そうしてのち、悪びれずに 役人に自首し、裁きを受けるがよい。これは一時的な方便というももだが、少しは日本国の元気を発揚するぐらいのことは あろう。わしには不幸にも、娘が多く、男の子はおまえしかいない。そのおまえが死ねばわし家系は絶える。そのときは、わしにもおまえにも天命がつきるわけだが、おまえはそれを気にしてはならんぞ》(中央公論『世界の名著=藤田東湖 』)
この父・藤田幽谷の言葉を聞き終えた藤田東湖は、「かしこまりました」と答えた。すると、父は、泣きながら 、「それでこそわしの児じゃ」と言う。そこで、さっそく、旅の準備に取り掛かった。その直後、来客があり 、酒宴となったために、親子の「別れの盃」ということになったが、その酒宴の最中に、大津村から急報が届き、イギリス船は、燃料と水えお与えて 帰したということで、一件落着ということになった。
「異国船打払令」が 、幕府から出るのは翌年である。私は、この一件から、水戸学、ないしは水戸学派というものについて、私なりの幻想を持つ。私は、思想の本質は、結果ではなく、その思想の形成過程に、あるいはその思想の誕生過程(起源)にあると思っている。たとえば、私は、生き残った者や成功した者達の証言や書き残したものを、あまり重視しない。たとえば、西郷南洲についての証言類も、福沢諭吉や勝海舟、あるいは大隈重信・・・等の「証言」を含めて信用しない。水戸学についても同じだ。水戸学は 、体制擁護の御用学でもなく、現状維持や立身出世を目指す「学問のための学問」でもなかった。明治維新の成果と果実を、分け与えられることがなかったとしても、当然であろう。水戸学の精神には、栄耀栄華や地位、名誉・・・などを求める世俗的野心はなかった。西郷南洲と藤田東湖に共通するものがあったとすれば、この点だろう。たとえば、私は、藤田東湖亡き後、全滅した水戸「天狗党」の悲劇を、西郷南洲の「西南戦争」の悲劇と同列に考える。
あまりにも有名になりすぎたために 、世俗にまみれすぎ、その真意が忘れられ、形骸化した言葉に、私は嫌いな言葉だが、『 西郷南洲翁遺訓』に、こんな言葉がある。
《命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。》(『 西郷南洲翁遺訓』)
この言葉が語られる度に 、私は 、人間というものの宿命について自己嫌悪に陥るが、それはともかくとして、この言葉の出どころは、藤田東湖あたりにあったのではないか 、と私は勝手に想像する。
藤田東湖と水戸学派(1)。
藤田東湖は言うまでもなく 、幕末の倒幕運動を主導した「尊皇攘夷」イデオロギーの震源地・水戸学派の中心人物だった。しかし、水戸学派の面々は、明治維新後は、人材は、ほぼ自滅しつくして、残ってはいなかった。吉田松陰のことは、明治維新で活躍した長州人脈の頂点にあった思想家として評価されるが、その吉田松陰の「尊皇攘夷」思想に影響を与えたのが、水戸学派であり、藤田東湖等であった。長州藩や薩摩藩に比して 、水戸藩は、その歴史的役割が、軽視され、忘れられているような気がする。
私の考えでは、明らかに思想的には、水戸藩こそが、明治維新の主役であった。西郷南洲も吉田松陰も、水戸藩の水戸学派の思想的影響下にあった。何故、水戸藩と水戸学派は歴史の表舞台から抹殺される運命にあったのか。水戸藩の水戸学には、思想を生み出すべき「過激な思想的思考力」があった。この「過激な思想的思考力」の故に、幕末の「尊皇攘夷」思想を生み出すと同時に、自ら、その「過激な思想的思考力」の犠牲になり、自らが自らを喰い尽くすように、自滅・自壊していったようにみえる。水戸藩の水戸学派ほど、激しい内部抗争、内部闘争を繰り返した藩はない。もちろん 、水戸藩に限らず 、派閥抗争や内部抗争を繰り返し、多くの犠牲を出した藩は、少なくない。しかし 、それでも水戸藩ほどではない。
水戸藩で面白いのは、「学問」や「思想」をめぐって、激しい内部抗争や殺し合いを演じてきたことである。つまり、水戸藩の水戸学は、そして水戸学派は、「命懸けの学問」「命懸けの思想闘争」を実践して来たのである。
井伊直弼の発動した「安政の大獄」事件で、主なターゲットになったのも水戸藩であったが、その井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」を実行したのも水戸藩士たちだった。水戸藩は、幕末期において、つねに政局の中心にいた。それは水戸藩が、思想的に時代の先端を走っていたからだ。
藤田東湖の父は藤田幽谷だが、この藤田幽谷は、天才的な頭脳の持ち主であり、
その子・藤田東湖もまた負けず劣らずの天才的な頭脳の持ち主であった。しかも、藤田父子の学問は、机上空論としての学問ではなく、「命懸けの学問」だった。藤田東湖の回想録『 回天詩史』は、次のような逸話で始まっている。
《 第一は文政七年(一八二四)、余が一九歳のとき、そのころイギリスの異国船がしにりに太平洋に出没していたのが、ついにボートをおろして茨城北方の大津村に上陸して来たのを、村の人々が捕まえて報告して来たときのことである。》
世間の予想では、おそらく幕府は、外国船を焼き捨て、異人を殺して威力を海外に誇示するであろうと、思っていたが、幕府の対応は、優柔不断な軟弱なものだった。そこで、父・藤田幽谷は、息子に、言った。
《 お前は急いで大津村へ行け。そして異人の小屋に飛び込み、奴らを皆殺しにせい。》
藤田東湖は、《 かしこまりました》と言って、決死の「切り込み隊長」を志願する。父は、泣きながら、《 それでこそわしの子じゃ》と言ったという。
私は、ここにこそ、水戸学、ないしは水戸学派の思想的真髄が、出ていると思う。藤田幽谷、藤田東湖の父子は、学問を極めると同時に、その思想を、即座に行動に移す用意が出来ていたのである。
(写真は、小石川後楽園。旧水戸藩江戸屋敷跡。)
森喜朗会長が辞意 12日表明へ 女性蔑視発言で引責
森元首相が五輪組織委員会会長の職を、正式に辞任となったようです。マスコミや野次馬、エセ文化人、エセ一般庶民・・・たちの思い通りになったようですね。おめでとうございます。(笑)(笑)
後任は川淵三郎だって。ピッタリじゃないですか。偽善天国・日本。馬鹿天国・日本。ニヤけた偽善野郎で、日本を売り飛ばせ・・・。
テレビをつけて、猿山の「野次馬ワイドショー(井戸端会議?)」を見ると、いつもの馬鹿芸人やスポーツ馬鹿、スポーツ御用評論家・・・どもが、歯の浮くような美辞麗句を並べて、「川淵三郎」を、べた褒めしているではないか。だから、お前ら、ダメなんだよ。バッシングからべた褒めへ。批判や批評が欠如しているんだよ。森喜朗の腰巾着から川淵三郎の腰巾着へ。恥ずかしくないのか。
そもそも、川淵三郎なんて、グローバリズムの手先だろう(?)。「竹中平蔵」のスポーツ版。竹中平蔵とともに、ちょーネクタイ姿で、ワインを片手にオペラ見学(?)・・・、パリ社交界デビュー(笑)。悪口でなくてもいいが、少しぐらい、まともな批判か批評ぐらいしろよ。ワシは、川淵三郎なんか大嫌いだよ、と言う人はいないのか。鷲みたいに。(笑)
これで、どうせ、オリンピックなんて中止確定だろう。
森元首相(五輪・組織委員会・会長)の「女性差別発言(?)」を擁護する。
そもそも女性の言動を批判してはいけないのか。女性批判は、いつからタブーになったのか。それは、女性を、一人前の人間として認めないということではないか。女性であれ男性であれ、もっと激しく批判、批評、論争すべきである。批判や批評、論争が禁じられた国は滅びる。集団匕ステリー的バッシングは、批判ではなく 、批判や批評からの逃走でしかない。
私は大文字の「正義」、つまり「ポリコレ」が嫌いだ。森元首相の「女性は話が長い」という「女性差別発言」なるものが、マスコミやSNSなどで話題沸騰中のようだ。私は、森元首相のことは好きではない。どちらかと言えば批判的である。しかし、今回の”「女性差別発言」バッシング”・・・には、強い違和感を感じ
る。思考停止的集団ヒステリー???
こういう時に、必ず登場してくるのが、欧米先進国(笑)のマスコミだが、その欧米マスコミが森元首相の発言を採り上げ、厳しく批判していると言う。だが、欧米マスコミとやらは、ちゃんと取材した上で批判しているのか。欧米マスコミこそいい加減ではないのか。そもそも、森元首相が、具体的に、どういう発言をしたかを確認しているのか。
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(日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会における、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の発言(全文)は、次のとおり。)
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これはテレビがあるからやりにくいんだが。女性理事を選ぶというのは、日本は文科省がうるさくいうんですよね。
だけど、女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります。これは、ラグビー協会、今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか? 5人いるのか? 女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。
あまり言うと新聞に漏れると大変だな。また悪口を言ったと言われる。女性を増やしていく場合は、「発言の時間をある程度、規制を促しておかないと、なかなか終わらないので困る」と言っておられた。誰が言ったかは言わないけど。そんなこともあります。
私どもの組織委員会にも女性は何人いたっけ? 7人くらいか。7人くらいおりますが、みんなわきまえておられて。みんな競技団体からのご出身であり、国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですから、お話もシュッとして、的を射た、そういう我々は非常に役立っておりますが。次は女性を選ぼうと、そういうわけであります。
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森元首相の発言は、以上のようなものだったらしいが、これが「女性差別発言」なのか。そうだとすれば、「女性」について、何事であれ、発言してはいけない 、ということになりはしないか。別にどうでもいいが、これも、皮肉を込めて、逆説的に言えば、一種の「言論弾圧」であり「言論統制」ということになりはしないのか。
たとえば、私は、女性の作家が書いた小説について、ダメなものはダメだと徹底的に批判する。先月、新芥川賞作家(宇佐美りん)が発表され、まだ幼さの残る女性作家の記者会見の様子が放送されたが、私は、その記者会見のテレビ画面を見ながら、絶望的な気分になった。何故か。こんなものが現代日本文学の最前線なのか、と。私は、なんの根拠もないが、現代日本文学の沈滞、衰退、崩壊の原因の一つが、ここにあると思った。その後、その新芥川賞作家について、少し詳しく調べてみたが 、私の感想は変わらなかった。今でも変わらない。
さて 、森元首相の「女性差別発言」に戻る。以上のような森元首相発言について日本のマスコミ、欧米マスコミはどう伝え、どう批判しるのか。
たとえば、私が、今、一番注目し、情報源として重視している女性がいる。深田萌絵という「1Tジャーナリスト(アナリスト)」である。私は、「男女差別」とか「男女平等」いう観点とは関係なしに、深田萌絵の言論活動に注目し、知的刺激を受けている。
ところで、野党系の議員たちが、一斉に、森元首相バッシングを展開しているが、私は、野党共闘を支持し 、政権交代を応援しいるが、スガ自民党の失策の連続で、政権末期と言われるにも関わらず、何故、野党の支持率が伸びないのか 、逆に支持率が下落するのか、という問題を考えると、この森元首相バッシングのm安易さとも、無関係ではないのではないかと思われる。野党系議員たちは、ここぞとばかりに、森元首相バッシングに狂奔しているようだが、国民や大衆、民衆の「集合的無意識」というものを考えたことはないのだろうか、とふと思う。いい加減な欧米マスコミの「空理空論」に便乗して、「日本は遅れている」だの「日本人として恥ずかしい」だのと、国会やマスコミで騒いでいる暇があったら、地方遊説でもやってみたらどうか。永田町や霞ヶ関辺りで、泣こうが喚こうが、選挙には勝てない。野党の支持率が下落するだけだろう。
岳真也と三田誠広と望月至高と・・・。
「文芸思潮」というマイナーな季刊の文芸誌がある。私も、何回か、座談会などで登場させてもらったこともあるが・・・。また、私が教えていた大学の学生が、何人か、ナントカ新人賞というものを受賞して誌面に登場したのを見たこともあるが・・・。今時、全く流行らない同人雑誌を重視したり、全国の同人雑誌の集まりを組織したり、そこから新人(中高年?)を発掘して 、表彰したり・・・というような、敢えて時流に逆行する反時代的な「謎」の文芸雑誌だが、最近の文芸雑誌の「軽佻浮薄」に飽きたらない中高年の文芸愛好者たちを中心に、一部には熱心な愛読者や定期購読者もいるらしく、分厚い雑誌が定期的に刊行されていて、私のところにも送ってくる。その「マイナーな文芸雑誌」に、最近、岳真也や三田誠広が登場し、文学的な「回想録」なるものを連載している。高校生時代の話が中心なのだが、二人とも同世代なので、一つ一つの思い出話が、実に面白い。中島みゆきの歌に「そんな時代もあったねと・・・」というのがあるが、まったくそういう感じである。私が、高校3年の頃、朝日新聞の「文芸時評」で、作家の林房雄が 、東京の現役高校生の小説を取り上げたことがある。藤沢成光という東京教育大学駒場高校の学生が、文芸部の雑誌「しまぞう」に発表した『羞恥にみちた苦笑 』とかいう小説だった。この高校生の小説が、「文学界」の同人雑誌推薦作として転載されたことから、林房雄も、朝日新聞の紙面に大きく取り上げたのだろう。この事件(?)について、岳真也が、その「回想録」に書いている。隣りの駒場東邦高校に在学していた文学青年が、岳真也だったらしい。実は、偶然なのかどうかわからないが、ド田舎の高校生だった私も、この事件を知っている。鹿児島というド田舎の高校生だった私は、この事件に驚くと同時に、わけもわからずに、ライバル意識のようなものを感じたものだ。しかし、いっぱしの文学青年に成長し、大江健三郎や小林秀雄やサルトルまで読んでいた私には、文学作品としては、「幼稚・稚拙」にしか見えなかったのを覚えている。孤独な自閉症的「乱読」の中で、自信過剰になっていた私は 、不遜にも、「なんだ、私の方が、文学的にも思想的にも深いじゃないか」と思ったものだ。私は、既にその頃、大学進学後は、哲学かフランス文学を専攻し、サルトルや実存主義 、実存哲学を勉強しようと思っていたので、それなりに深い鑑識眼を身につけていたのだ。
話は変わるが、その一、二年後 だったと思うが、三田誠広という大阪の高校生の小説『 Mの世界』が、河出書房新社の「学生小説コンクール」で佳作入賞し、「文芸」に掲載されたことがあった。この文学的事件には驚いた。度肝を抜かれたと言っていい。恐ろしいほど、濃密な哲学小説だったからだ。とても私には無理だと脱帽した。この17歳の高校生が、高校を休学して書き上げたという実存主義的哲学小説『Mの世界 』を、今でも私は、近代日本文学、あるいは戦後文学の中で、最高傑作の一つだと思っている。高校卒業後、三田誠広は、早稲田大学に進学し、およそ10年後に、『僕って何 』で芥川賞を受賞する。ほぼ同じ頃、芥川賞を受賞した中上健次とともに新世代を代表する流行作家となる。私は、それからしばらくして、岳真也を通じて知り合い、交流するようになったが・・・。ところで、三田誠広の回想録()の中で、私がもっとも驚いたのは、羽田闘争で死亡した京大生の「山崎博昭」に関する部分だった。山崎博昭も、三田誠広と同じく大阪の大手前高校の出身だった。しかも友人たちを通じて、面識があったらしい。他に詩人の佐々木幹郎や、学生運動から革命運動に身を投じて、若くして死んで行った同級生たちもいたらしい。さらに、三田誠広の同級生として「辻恵」という名前の同級生も登場するが、この辻恵は 、私が、「小沢一郎議員を支援する会」でしばしば同席する元衆議院議員の辻恵と同一人物のようだ。先日も、「小沢一郎を支援する会」の「ZOOMシンポジウム」で、私の前に登場し、スピーチした、あの「辻恵」である。「山崎博昭」という名前も、懐かしい名前だ。私は、同姓なのでよく覚えている。
そこで、またまた話は変わる。私は、最近、『 栞』という俳句の雑誌を、独力で創刊し、刊行し続けている「望月至高」というほぼ同世代の人物(「俳人」)と、blogやFacebookを通じて知り合った。その縁で、私も、詩的散文詩のようなものを、『栞 』に連載させてもらっているが、その雑誌で、「山崎博昭」の追悼特集を掲載している。当然だが 、そこに、三田誠広も登場している。「望月至高」の世界は、山崎博昭という羽田闘争で死んだ京大生を軸に、三田誠広や佐々木幹郎、辻恵・・・など大手前高校の人脈に繋がっている。ーー
■小沢一郎を先頭に 、「ヴゥ・ナロード」(民衆の中へ!)の政治哲学で政権交代を実現せよ。
今日(2021/1/30)は、午後二時から、「小沢一郎議員を支援する会」(弁護士・伊東章会長)の「ZOOMシンポジウム」(豊島区民センター)が、行われました。白井聡先生の「ZOOM講演」と、小沢一郎議員の挨拶(ビデオメッセージ)、森ゆうこ参議院議員の「ZOOM挨拶」、辻恵元衆議院議員の挨拶、そして私も、最後に、ゲストスピーカーとして、「ZOOM」で登場させてもらいました。私は、来たるべき選挙では、「政権交代」に向けて、「小沢一郎を先頭に立てて、戦え」「策士=小沢一郎なら『 政権交代』も実現出来る」「野党の議員は、山本太郎のように『地方遊説』と『 ドサ回り』(小沢一郎式「川上戦略」)から始めよ」「国会論戦とテレビ出演だけでは、野党の支持率は落ちるだけだ」「日本国民、一般大衆、民衆を畏れよ」・・・と主張しました。
今回の「ZOOMシンポジウム」は、前もって、このFacebookやTwitterなどでも「告知」すべきかとも思いましたが、「コロナ禍」の「緊急事態宣言」中ということもあり、諸般の事情を踏まえ、遠慮しました。主催者側スタッフによると、今回の経験を踏まえ、また二回目、三回目とやっていくそうです。というわけで、次回から、「告知」します。なお、JWA(岩上安身)とかいうネット放送局によって、「Youtube動画」か「TwitCasting
」で、実況中継されたようです。参加人数も、80名を超えたようです。大成功。次回が楽しみ。
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(以下は『月刊日本』連載予定の原稿の下書きです。詳しくは『月刊日本』でお読みくだださい。)
江藤淳とその時代(1)
私が、江藤淳という名前を知ったのは、高校時代、初めて、自分の金で 、
文庫本というものを買った時だった。それまで、私には、自分の金で本を買うという習慣はなかった。私は、どちらかと言えば、「読書嫌い」の少年だった。私は、遅ればせながら、高校時代、初めて
「読書」というものに目覚めた。そして初めて文庫本というものを買ったのだ。新潮文庫の大江健三郎の初期小説集『 死者の奢り・飼育』がそれだった。その新潮文庫の解説を書いていたのが「江藤淳」だった。しかし、その時は 、それほど深く「江藤淳」という名前に関心を持つことはなかった。私は、その時、大江健三郎の小説に夢中になりかけたばかりで、大江健三郎しか眼中にない状態だったからだ。しかし、今から考えると、私の「大江健三郎狂い」に、さらに刺激を与えたのは、江藤淳の文章の力だったのかもしれない。江藤淳は、解説で、こう書いている。
《 大江健三郎という作家を初めて識ったのは、一九五七年の六月頃である。ちょうどそのころ、「文学界」に批評を書きはじめていた私は、ある日、文芸春秋社の地下にある文春クラブで、焦茶の背広をややぎこちなく身につけた色白の少年を見かけた。ついぞ見かけたことのない特徴のある顔立ちだったが、彼はやがて編集者に軽く会釈すると、こちらには見むきもせず、ひどく癖のある足取りで外に出ていった。あれは誰だときくと、東大新聞の懸賞小説で一等になった大江健三郎という学生だという。大江はそのとき眼鏡をかけていなかった。》(江藤淳『 死者の奢り・飼育』解説より)
私は、当然の事ながら、江藤淳のこの文章で、「文学界」とか「文芸春秋」とか、「文春クラブ」・・・などというものを初めて知った。ここに描かれている「大江健三郎」は、大江健三郎の小説作品の中から飛び出してきた人物のように、生き生きと描かれている。「東大新聞の懸賞小説で一等になった大江健三郎という学生・・・」「焦茶の背広をややぎこちなく身につけた色白の少年・・・」という江藤淳の言葉は、当時、高校生だった私には、充分に刺激的だった。目の前に作者がいる。私は、小説には 、小説という作品だけではなく、「作者」という具体的な人間がいるのだということを、初めて自覚的に認識した。「作者」という存在を印象づけられた文章だった。私の文学体験の原体験は、ここから始まったと言っていい。私が、それまで、悶々とした内向的な少年時代を過ごしながらも、文学や読書に目覚めることが出来なかったのは、文学作品には 、それを書いた「作者」がいるということを認識出来なかったからだ。私は、この時、初めて、今、ここに、存在し、動いている「作者」というものを知った。作者とは何か。作家とは何か。私は、大江健三郎の小説作品に夢中になると同時に、大江健三郎という「作者」という存在にも夢中になった。たとえば芸能界や芸能人に憧れる少女たちのように、あるいは漫画や漫画家に憧れる漫画少年・少女たちのように、私もまた、芸能人や漫画家や作家に憧れ始めたのだと思う。そして、その憧れの対象は、作者その人だった。
江藤淳は、慶應義塾大学の学生だった時、「三田文学」に発表した『夏目漱石論 』で、デビューし、『漱石とその時代 』を書き続ける途中で、亡くなっている。文芸評論家・江藤淳の人生は、夏目漱石で始まり、夏目漱石で終わった人生だった。『閉された 言語空間』や『 一九四六年憲法』などに象徴されるような政治評論や戦後史研究などが中心ではなかった。私は、銀座の「三笠会館」で、一度だけ江藤淳と対談(インタビュー)したことがあるが、その時、私が、「政治評論」に言及した時、激しくそれを否定し、「自分の仕事の中心は『文芸評論 』だ」「『政治評論 』は『文芸評論 』の延長だ」「私の『政治評論 』は、新聞社の政治記者上がりの政治評論家の書くものとは違う」・・・と頑強に主張したことを覚えている。あまりにも激しかったので、よく覚えている。その後、中断していた『 漱石とその時代』の続編の連載(「新潮」)が始まった。
言うまでもなく江藤淳の批評の本質をもっとも鮮明に体現しているのは漱石論である。しかも、江藤淳の漱石論は、デビュー作から、一貫して作品論中心ではなく、夏目漱石その人を論じる作家論、作者論、つあり「評伝夏目漱石」が主体であった。誤解を恐れずに言えば、江藤淳の漱石論は、作品論ではなく、作者論・作家論であった。
《その晩年のある時期に立って、過去の業績をふり返ってみると、文学史的評価や位置づけなどは児戯に類する一些事のように思われて来る作家がある。彼の生涯の重みが、そのような「人間の作った小刀細工」 を拒否している。たまたま、自分の一生の密かな旋律を、「文学作品」というものの中に歌いこめて来た一人の男がいて、やがて死のうとしていることを考えると、一国の文芸がどうなろうと、その中でこの作家の位置がどうなろうと、そんなことはすべて第二義的な、軽薄な議論に思われて来る。つまり人間の一生などというものはそれほど厳粛なものなので、ぼくらはそんな重苦しいものに向かいあっているのがいやなばかりに、かえってさまざまな小手先の細工を案出するのである。》(『夏目漱石』)
江藤淳の漱石論には、漱石論や漱石研究に留まらない危険な魅力がある 。つまり、漱石論ではあるが、同時に江藤淳論であり、江藤淳研究であるという魅力である。江藤淳は漱石論で、「自分自身を語っている」。江藤淳の漱石論以後、雨後の筍のように量産されるようになった「漱石論」や「漱石研究」がつまらないのは、あくまでも、「漱石論」や「漱石研究」にとどまっているからだろう 。江藤淳の漱石論は、その種の「漱石論」や「漱石研究」とは根本的に異なる。
それは、江藤淳の漱石論のスタンスそのもの由来している。江藤淳の漱石論のスタンスとは、漱石を、作者・漱石を中心に論じていくというスタンスである。それは、同時に、漱石を論じながら、江藤淳という自己自身を論じているというところだ。