2019年5月1日水曜日

【歴史学者亡国論(2)★トンデモ歴史学者=呉座勇一の正体】

【歴史学者亡国論■トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状(2)】
呉座勇一の『 応仁の乱』(中公新書)を読みながら「 自称=歴史学者」という人種の「愚鈍さ」について愚考してみた。そこで、思い出すのが谷崎潤一郎の『 刺青』の「  其れはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」という有名な文章である。呉座勇一には、この「 愚 」の美徳が分かっていない。さて、今、話題の人物、呉座勇一の『 応仁の乱』を読んでみた。まだ、全編を読み尽くしたわけではないが、ほぼ読んだという前提で、話を進める。1ヶ月ほど前に、私が手にした書籍『 応仁の乱』は、「47万部突破」という宣伝文句が印刷されている。おそらく、読みもしない幻の読者が、買ったのだろう。ベストセラーとは 、そういうものである。この数字に釣られて、さらに買う付和雷同組の読者というか、読者に値しない読者(消費者  )もいるだろう。この種の地味な本が、ベストセラーになるということは、明らかに健全ではない。不健全である。売れるべき本が売れないで、売れる必要のない本がバカ売れ。私は、秋山駿という文芸評論家の「  自分の本は2 、3冊、売れればいい。」「   2、3人は、読者がいるだろう。」という趣旨の言葉を思い出す。これこそ文芸評論家の矜恃。プライド。それに対して、『応仁の乱 』がどれほど価値のある本かは知らない。世の中には、47万人もの「  物好き」がいるものだと思う。最近の呉座勇一の傲岸不遜とも思える言動を見ていると、「 47万部突破」という資本主義的、ゼニカネ的、下世話な商売人根性が見え隠れするのは、私の妄想だろうか。呉座勇一は、「歴史学者  」と「作家=評論家」という二元論を主張し、「 歴史学者ではない作家や評論家には歴史研究の資格がない 」「 作家や評論家は 、歴史学者や歴史学会の常識やルールに従うべきである 」などと言っているらしい。この言葉に間違いがないとすれば、まことに 聞き捨てならない言葉であると思う。典型的なアナクロニズム。時代錯誤。おいおい、そこまで言うか、と冗談の一つでも言ってみたくなるようなお粗末な発言。久しぶりに「官尊民卑  」とか、「 官学と私学 」「  在野」「 野史 」というような言葉を思い出した。そもそも学問、あるいは歴史学とは何か。学問の起源、学問の誕生の歴史的意味とは何か。あるいは学会とか、アカデミーとかアカデミズムと何か。言うまでもなく、学問や学会の誕生とは、民間の学問を、国家権力の管理下に置くことが、主目的であった。歴史学や歴史学会も例外ではないだろう。一種のポストモダン的な瑣末主義である。こういう歴史分析しか出来ない歴史家は、本質的な議論をしたことがないゆえに、論争ということになると、実に幼稚な 、単純素朴な議論しか出来ない。呉座勇一の論争えお見ていると、そういう幼稚な、単純素朴な議論に終始しているように見える。