2019年5月1日水曜日

【歴史学者亡国論( 3 )★トンデモ歴史学者=呉座勇一の正体】

【歴史学者亡国論■トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状(3)】
呉座勇一は『 応仁の乱』の序文で 、内藤湖南の「  応仁の乱」論を、批判的に引用している。内藤湖南は、応仁の乱で、曰本社会の構造は革命的変化を遂げたと言う趣旨の発言をしている。それに対して、呉座勇一は、誤解を恐れずに言えば、応仁の乱の前後で、「 何も変化はなかった 」論を展開しているつもりらしい。私は、呉座勇一的な議論を、典型的な「  修正主義」だと看做す。要するに、内藤湖南が、大胆な革命的仮説を提起しているのに対して、呉座勇一は、内藤の仮説を正面から批判し、それに代わるような新説を提示するのではなく、「 いや、革命的変化などなく、歴史は淡々と続いてますよ 」と一種の常識論を説いているだけである。こういう歴史分析は、才能のない凡庸な歴史家がよくやる事だと思う。そして、細部にわたる詳細な歴史分析を延々と繰り返す。文学や哲学の分野でもこういう例は少なくない。大胆な理論や仮説を議論することを避けて、瑣末な枝葉の議論に終始するポストモダン的な瑣末主義である。呉座勇一も、その一人であろう。こういう人が論争に直面すると 、普段、本質的な議論をやったことがないが故に、実に幼稚な、単純素朴な、素人受けするような議論しか出来ない。呉座勇一の論争に際しての発言を見ていると、実に幼稚な、単純素朴な発言を繰り返していることが分かる。呉座勇一は、論争の渦中で、こういう発言をしている。

▼▼▼以下引用▼▼ ▼
《 井沢氏は、歴史学界が「手のひらを返した」ことを卑怯なことのように言うが、史料が出てきたら見解を訂正するのは当たり前である。新史料によって自説が否定されたのに、屁理屈をこねて自説に固執する方がよほど恥ずかしい。

以下のインタビュー記事でも答えたが、史料がないから確たることは言えない場合、「わからない」とはっきり認めることが歴史学者の「勇気」である。作家は個人だが、学者は学界の一員である。現時点で答えが出なくても、将来史料が出てきて答えが出るかもしれない。次代の研究者に後を託すのもひとつの見識と言える。  》( 呉座勇一 )
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これは、呉座勇一自身の発言である。驚き呆れるほかはない。私は、この呉座勇一の発言に、正直に言って、コメントしようがない。そこまで、歴史学者って、いい加減なものなのか、と言うしかない。井沢元彦や八幡和郎が、早々と論争打ち切り宣言をしたのにも、肯ける。こういう歴史学者を相手に論争しても意味がない。実は、この呉座発言には、前段階があった。井沢元彦の発言から引用する。 「  山本勘助と真田幸村。時代劇のスターは歴史学では厄介者?(WEB歴史街道)」より。

▼▼▼以下引用▼▼ ▼
《 なぜ歴史学界は勘助の存在を否定したのでしょうか? 理由は簡単で「同時代の史料に勘助が登場しない」というものでした。いかに状況証拠で勘助が存在したと推論できても、証拠が出ない限り絶対ダメだというのが歴史学界の頭の固さです。

ところが証拠が出ました。皮肉なことに『天と地と』がNHK大河ドラマになって放映された時に、それを見ていた視聴者が自分の家に先祖から伝わっている文書が、信玄の書いたものだと気がつきました。テレビ画面に信玄の花押、つまりサインが大写しになったからです。その文書になんと山本菅助(勘助)の名前が書かれていたのです。文書はもちろん本物で、これ以降、歴史学界は手のひらを返したように「勘助は実在した可能性が高い」といい出しました。

証拠(史料)があれば認めるが、証拠がなければ絶対に認めない。こういうのを実証主義といいます。人の運命を左右する裁判なら、それでも結構ですが、歴史については史料がないものもあります。そこは推理推論で埋めるしかないでしょう。そしてその推理推論は妥当ならば仮説として、この場合なら「山本勘助は実在した可能性が高い」と認めるのが学問の常道であるはずですが、日本歴史学界はこの常道を外しているということです  》(井沢元彦  )
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へー、そういうことがあったのか、と思う。証拠となる文献がないから、「山本勘助 は実在しない 」と言っていた歴史学者たちが、証拠文献が出てくると、態度を一変させて、「  山本勘助は実在した」と主張し始めたという。これは、「 歴史学者 」や「  歴史学界」の恥でしょう。証拠が出てきたら態度を一変させることは当然だ、と呉座勇一は言う。当然ではないでしょう。歴史学者としては大敗北であり、切腹ものでしょう。呉座勇一には「  恥の感覚」が欠落している。おそらく、当時の「 山本勘助非実在説 」に関わっていた歴史学者たちは、顔面蒼白となり、穴にでも隠れたい気持ちだったはずである。呉座勇一の「居直り強盗的発言  」には、空いた口が塞がらない。歴史学者が悪いんではない。証拠が見つかったことが悪いんだ(?)とでも。呉座勇一によると、「  歴史学者」や「歴史学会  」というものは、自分たちの言葉に責任を持つ必要のないものらしい。なるほど  、歴史学者 や歴史学界が、世間から甘く見られるのも当然でもある。井沢元彦が、歴史学者や歴史学界を厳しく批判しているらしい。これも、呉座勇一の文章から引用する。

▼▼▼以下引用▼▼ ▼
だが私には、井沢氏の歴史学界への指摘こそが厳しすぎるように思われる。八幡氏は井沢氏の著作を愛読しているようなので先刻ご承知だろうが、井沢氏は『逆説の日本史』などの著作の中で、日本の歴史学界を厳しく批判している。学界に身を置く私には、それは時として罵倒にすら感じられる。学界の歴史研究者は視野が狭く頭でっかちな専門バカである、と井沢氏は再三述べている。歴史学者が発掘し、歴史学者が読解した史料を利用しているにもかかわらず、である。それに比べれば私の批評はむしろ生ぬるいぐらいである
▲▲▲引用終了▲▲▲

井沢元彦は、「  学界の歴史研究者は視野が狭く頭でっかちな専門バカである」と、批判しているらしいが、私には、井沢元彦の批判は当然だと思われる。

【歴史学者亡国論(2)★トンデモ歴史学者=呉座勇一の正体】

【歴史学者亡国論■トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状(2)】
呉座勇一の『 応仁の乱』(中公新書)を読みながら「 自称=歴史学者」という人種の「愚鈍さ」について愚考してみた。そこで、思い出すのが谷崎潤一郎の『 刺青』の「  其れはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」という有名な文章である。呉座勇一には、この「 愚 」の美徳が分かっていない。さて、今、話題の人物、呉座勇一の『 応仁の乱』を読んでみた。まだ、全編を読み尽くしたわけではないが、ほぼ読んだという前提で、話を進める。1ヶ月ほど前に、私が手にした書籍『 応仁の乱』は、「47万部突破」という宣伝文句が印刷されている。おそらく、読みもしない幻の読者が、買ったのだろう。ベストセラーとは 、そういうものである。この数字に釣られて、さらに買う付和雷同組の読者というか、読者に値しない読者(消費者  )もいるだろう。この種の地味な本が、ベストセラーになるということは、明らかに健全ではない。不健全である。売れるべき本が売れないで、売れる必要のない本がバカ売れ。私は、秋山駿という文芸評論家の「  自分の本は2 、3冊、売れればいい。」「   2、3人は、読者がいるだろう。」という趣旨の言葉を思い出す。これこそ文芸評論家の矜恃。プライド。それに対して、『応仁の乱 』がどれほど価値のある本かは知らない。世の中には、47万人もの「  物好き」がいるものだと思う。最近の呉座勇一の傲岸不遜とも思える言動を見ていると、「 47万部突破」という資本主義的、ゼニカネ的、下世話な商売人根性が見え隠れするのは、私の妄想だろうか。呉座勇一は、「歴史学者  」と「作家=評論家」という二元論を主張し、「 歴史学者ではない作家や評論家には歴史研究の資格がない 」「 作家や評論家は 、歴史学者や歴史学会の常識やルールに従うべきである 」などと言っているらしい。この言葉に間違いがないとすれば、まことに 聞き捨てならない言葉であると思う。典型的なアナクロニズム。時代錯誤。おいおい、そこまで言うか、と冗談の一つでも言ってみたくなるようなお粗末な発言。久しぶりに「官尊民卑  」とか、「 官学と私学 」「  在野」「 野史 」というような言葉を思い出した。そもそも学問、あるいは歴史学とは何か。学問の起源、学問の誕生の歴史的意味とは何か。あるいは学会とか、アカデミーとかアカデミズムと何か。言うまでもなく、学問や学会の誕生とは、民間の学問を、国家権力の管理下に置くことが、主目的であった。歴史学や歴史学会も例外ではないだろう。一種のポストモダン的な瑣末主義である。こういう歴史分析しか出来ない歴史家は、本質的な議論をしたことがないゆえに、論争ということになると、実に幼稚な 、単純素朴な議論しか出来ない。呉座勇一の論争えお見ていると、そういう幼稚な、単純素朴な議論に終始しているように見える。

【歴史学者亡国論( 1 )★トンデモ歴史学者=呉座勇一の正体】

【歴史学者亡国論(1)■トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状(1)】

今、新幹線の中です。新神戸駅。明日、東京で仕事があるので、今日中に東京に着くように
昼頃、鹿児島中央駅を出発しました。朝早く、出発する計画を立てて、早く就寝したのだが、目は覚めたが、疲れているらしく、起きれなかった。肥薩線を経由して、新八代まで行き、そこから新幹線に乗ろうと思っていたが、どーも無理らしいと分かった。無理せず、のんびり行こうというわけで、新幹線直通で、上京することにした、というわけです。道中、いわゆる「百田尚樹『 曰本国紀 』 論争」、あるいは、「 呉座勇一/八幡和郎論争 」の関係の資料や文献を読み直した。スマホの中に、おもだった論争史料は収集していた。私は、最初の段階から、つまり「ウキペディアからのパクリ」疑惑云々の段階から、この論争に興味を持っている。断っておくが、私は、元々百田尚樹を擁護するつもりはないし、また井沢元彦を擁護するつもりもない。どちらかといえば、百田尚樹も井沢元彦も、私にとっては問題外の人物たちである。彼等は「作家  」ということになっているが、私は、彼等に「作家  」を代表させるのには無理があると思う。私が関心を持つのは、「 歴史学者 」を自称する呉座勇一の議論である。つまり、呉座勇一は、「歴史学者 」という幻想の権利を振りかざして、作家や評論家を批判、蔑視、罵倒しているようだ。私は、呉座勇一が、どういう作家や評論家を念頭に、大言壮語しているのか分からないが、要するに「メクラ、蛇に怖じず  」的な大言壮語ではないのか、と想像する。たとえば、歴史に造詣の深い徳富蘇峰や森鴎外 、幸田露伴などはどうなのか。彼等も その種の作家や評論家の部類なのか。是非とも知りたいものだが、おそらく答えられないだろう。場末の「歴史学者」の端くれに過ぎない呉座勇一には、「徳富蘇峰よ、お前は評論家かジャーナリスト  にすぎなのだから、歴史を語る資格はない」などと言えるのか。そこまでの勇気も蛮勇も持ち合わせていないだろう。西郷隆盛を絶賛している中江兆民や福沢諭吉、内村鑑三は、どうか。たしかに 彼等は、「 歴史学者 」ではないのだから、呉座勇一の評価からいえば、「歴史研究」をする資格もない「 評論家 」なのだが、どうなのか。彼等の西郷隆盛論は、語るに値しない素人のタワゴトに過ぎないのか。たとえば、福沢諭吉の西郷隆盛擁護論として知られる『丁丑公論  』を、歴史学者たちはどう読むのだろうか。歴史学者的には、取るに足らない妄言でしかないのか。というのは、半ば冗談。半ば本気。東大国史学科卒の歴史学者( 圭室諦成 、岩波書店『 西郷隆盛 』)は 、福沢諭吉の『丁丑公論 』を理解していないだけではなく、全く逆に理解し、「  福沢諭吉も、西郷隆盛を厳しく批判している」と大真面目に書いている。歴史学者の史料や文献の読み方って、そんなものである。さすがに出版元の岩波書店は 恥ずかしくなったらしく 絶版にしているという喜劇まで引き起こしている。歴史学者が、福沢諭吉の『丁丑公論 』を読めていないのである・・・。というわけで、今日はここまで。私は、今、新幹線「めぐみ 」で、東京を目指しています。鹿児島の「さつま揚げ  」を肴に、焼酎「あらわざ 」をちびりちびり呑んでます。「あらわざ  」は、自宅から持ってきました。実は、小生の先祖が、集落の人に土地を提供し、そこに公民館を建てたらしく、今でもその上納金(借地料  )として、「あらわざ  」を、熨斗紙つきで、もって来るというわけです。もちろん仏壇にあげましたよ。先祖の焼酎の残りを、新幹線の中で呑み、この馬鹿息子( 放蕩息子 )は 、すっかり 酔っ払って来ました。というわけで、今日は、ここまで。