久しぶりに、メルマガ「山崎行太郎の毒蛇通信」を配信しました。
《 竹中平蔵とオリンピックと「ネット右翼世代」》
https://www.mag2.com/m/0001151310.html
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Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
■商業文芸誌の書き手の中心は、何故 、文藝評論家から「ライター」にとって代わられたのか。
いつの頃だろうか、多くの有能な文芸評論家たちが、商業主義文芸誌から消えた。文芸誌は、商業主義を追求するあまり、文学の原点を忘れ 、「売り上げ」が文学の基準になり、結果的に文学は、商業主義を追求するあまり、商業的にも衰退し、文学自体も社会的に地盤沈下し、存在意義を失っていった。つまり、文学の重要な存在根拠だった「文芸評論家」が、文芸誌や文壇から排除され 、追放されることによって、文学は衰退していったと言っていい。何故か。ここに、現代日本の文化的貧困化、文化的窮乏化の具体的な見本があると、私は思っている。文芸評論家には、曲がりなりにも「批評」があった。批評とは何か。文学批判や小説批判の能力である。批評的思考力である。しかし、ライターにはそれがない。ライターには、文学や小説を批判したり、批評したり、否定する能力はない。「御用学者」的なゴマすり 、それがライターである。私は、「ライター」という言葉を冷笑的に、侮蔑的に使っている。
たとえば、「武田砂鉄」という「ライター」がいるが、商業文芸誌「文学界」や「すばる」に、コラムを連載している。何故、武田砂鉄のようなライターが、文芸誌に連載を持っているのか、私には不可解だが・・・。その「ライター武田砂鉄」が、「LGBT騒動」について、「水を得た魚」のように積極的に発言している。なるほど、「誰もが否定出来ない」正論である と思う。しかし、こういう小市民的な、人畜無害の「正論すぎる正論」を自信満々に書き続け、掲載することが 、文芸誌の主要な役割で あろうか。私は、「編集者」というサラリーマンが、こういう凡庸な「正論」に傾きがちなことは仕方がないと思う。こういう時のために、「編集者」たちが飼い慣らしておいたのが、自分たちの人畜無害の「エセ正論」を代弁してくれる、いわゆる「御用ライター」なのだろうか。どうもそういう気がする。
竹中平蔵とオリンピックとネット右翼世代。
竹中平蔵が、経済三団体の代表が揃ってオリンピック開会式に欠席するという情報で、本性を露わにして、怒りまくっているようだが、何故、竹中が、オリンピックの開会式不参加ごときに、それほど興奮するのか。不思議だったが、納得がいった。オリンピックに邁進するスガポンコツ首相を影で操っているのが竹中平蔵と竹中一派だったということだろう。オリンピック強行の裏には、政財界の「フィクサー=竹中平蔵」がいたというわけか。なるほど。そうだったのか。そういえば、成田空港の検疫所あたりには 、パソナの「派遣社員」で、しかも「中国人」の派遣社員が溢れているらしいが、オリンピック開催に一番熱心なのが、竹中平蔵だとすれば、納得がいく。
竹中平蔵は 「オリンピック開催反対」を「世論」だと思っているらしい。そして「自分の考えは世論とは逆だ」が、しかし、「世論は間違う」と言いたいらしい。なるほど一理がある。しかし、世論、つまり大衆の世論なるものが「正しい」ということも少なくない。竹中平蔵の意見や主張が、いつも正しいという保証は何処にもない。要するに、一般大衆の激しい「竹中平蔵バッシング」におびえているだけだろう。竹中平蔵は、さんざん「大衆( B層)」を利用しておいて、大衆が「竹中平蔵バッシング」を始めると、今度は大衆を切り捨てる。まったくいい加減な男である。今こそ 、「売国奴=竹中平蔵を叩き潰さなければならない」・・・。
開会式の演出(小林某)や音楽担当者(小山田某)たちが、続々、過去の言動を暴露、告発され、辞任や追放に追い込められているようだが、この連中の多くが「ネット右翼世代」とでも呼ぶべき世代に属しているらしいことは、何を意味しているだろうか。それにしても、三流、四流の場末の芸人崩れたちが、オリンピックという「国際的イベント」を仕切っていたというのだから、笑える。ユダヤ人のホロコーストを揶揄したとか、身体障害者をいじめたとか、そういう過去の言動を、今頃、ドシロートに批判、告発されたぐらいで、オタオタするということが、三流、四流の芸人崩れのすることだ。おそらくこの連中は、安倍政権時代に、選ばれたメンバー、典型的な「ネット右翼世代」なのではないか。しかも、「ホロコースト」を揶揄したというSNSの記事を、ユダヤ人権保護団体「サイモン・ヴィゼンタール・センター」に内通・密告したのが自民党代議士の中山某( 防衛副大臣)だったというから笑わせる。スパイは自民党内部に、つまり自民党という「ネット右翼政党」の内部にいたということだろう。この中山防衛副大臣は、イスラエル空爆問題でも、イスラエル擁護という政府無視の「スパイ活動」の前歴があるらしい。
夏野剛という、怪しいネット右翼系の慶應SFCのインチキ教授がいる。このインチキの出稼ぎ教授が、オリンピック開催反対の日本国民大衆に対して、ネット番組で、「アホ」「クソ」と愚弄し、それをSNSで批判されると、即、反省し謝罪したらしい。慶應の教授を名乗るのは辞めてくれよ。それにしても 慶應SFCって、竹中平蔵あたりから、ネットウヨ大学のアホクソ学部に成り下がったね。慶應経済学部も、東大や京大や官僚の天下り先に成り下がっている。昔、「植民地大学」という言葉があったが、今や、慶應こそ「植民地大学」と言うべきだろう。
■(続)■商業誌としての文芸雑誌は滅びよ。全ての文芸雑誌が滅びた後に、文学は蘇るはずだ。ーー文芸雑誌撲滅論。
「新潮45事件」とも言うべき「LGBT騒動」における新潮社の編集者たちや、新潮社と関係あるらしい作家、評論家たちの「LGBT騒動」に関する言動と思想を見ていると、文学精神の退廃と衰退、没落は、行くところまでいくほかはないだろうと思う。彼らの思想と行動は、社会的には間違ってはいないだろうが、文学的には、その意味も価値もほぼゼロというより、マイナスと呼ぶしかない、と私は思った。新潮社の編集者たちの言動を改めて見なおしていくと、何のために文芸出版社に入社したのかと、疑わざるをないものがほとんどだ。「文学と悪」という問題と言うより、まず、たとえば「文学と人間」という問題についてでも、一度でも、考えたことはないのだろうか。人間は「善」なる行為を行う存在であるべきかもしれない。が、同時に、「犯罪」や「殺人」「強姦」「不倫」も、行う存在だろう。文学を道徳教育の一環と考える人がいてもいいだろう。それも別に悪いことではない。しかし、それに満足しない人間がいてもおかしくない。そんなことは小学生でもわかっているだろう。私は、小学低学年残ろ、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んだ時、正確には「紙芝居」で、『蜘蛛の糸』を見た時、何か奇妙な胸騒ぎを覚えた。これはなんだろうと思った。「善なるもの」への懐疑と不安。後にドストエフスキーの『罪と罰 』を読んだ時、私は、人間という存在は、なんと恐ろしくも、魅力的なのだろうと思った。私は、すっかり「悪」というものの魅力の虜になっていた。
「新潮」編集長の「矢野優」さんが、次のような文章を編集後記に書いていた。私は、一読して 、絶望的な気分になった。ああ、この人は「いい人」だなあ、と。
《 「新潮45」二0一八年十月号特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈 』論文」について、少誌の寄稿者や読者から多数の批判が寄せられました。
同企画に掲載された「政治は『 生きづらさ』という主観を救えない」において筆者の文芸評論家・小川榮太郎氏は「LGBT」と「痴漢症候群の男」を対比し、後者の「困難こそ極めて根深かろう」と述べました。これは言論の自由や意見の多様性に鑑みても、人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だと小誌は考えます。
このような表現を掲載したのは「新潮45」ですが、問題は小誌にとっても他人事ではありません。だからこそ多くの小誌寄稿者は、部外者ではなく当事者として怒りや危機感の声をあげたのです。
文学者が自身の表現空間である「新潮」や新潮社を批判すること。それは自らにも批判の矢を向けることです。
小誌はそんな寄稿者たちのかたわらで、自らを批判します。そして、差別的表現に傷つかれた方々に、お詫び申し上げます。
*
想像力と差別は根底でつながっており、想像力が生み出す文芸には差別や反差別の芽が常に存在しています。
そして、すぐれた文芸作品は、人間の想像力を鍛え、差別される者の精神、差別してしまう者の精神を理解することにつながります。
「新潮45」は休刊となりました。しかし、文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います。
二0一八年九月二十八日
「新潮」編集長・矢野優
》
まことに、立派な、それ故に人畜無害な、健康的な文章である。私は、そこを批判しているのではない。これが、文芸雑誌「編集後記」に書かれていること違和感を持つというだけである。つまり、健全なる小市民的文章だが、私の眼には、どう見ても、文学的・芸術的な文章には見えないということだ。
矢野編集長は、「文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います」と力強く宣言しているが、私には、この文章は、「文学と差別の問題について、小誌は考えることを放棄・拒絶します。」としか読めない。無責任な政治家の場当たり的、口から出任せの言葉にしか見えない。実際、その後、この「文学と差別」の問題を取り上げた気配はない。
「LGBTには生産性がない」と言った杉田某女史や、それを擁護した文芸評論家・小川榮太郎の方が「逃げた」わけではない 。逆である。杉田某女史や小川榮太郎が議論や論争の継続を呼びかけたが、議論や論争から「逃げた」のは、矢野編集長や作家や評論家たちの方である。
。
■薩摩藩と水戸藩と日下部伊三次( 『 藤田東湖と西郷南洲』 余録)
桜田門外の変で、井伊直弼暗殺に成功しながら、現場近くで彦根藩の武士に切られて負傷し、逃亡を断念、その場で自決した有村次左衛門は、前夜、日下部伊三次の娘=マツ( 松子)と婚姻の儀式を行っていた。日下部伊三次とは何者か。日下部伊三次と有村次左衛門は、どういう関係にあったのか。有村次左衛門は、有村家の三男であり、日下部伊三次の長女と婚約することで、日下部家の家督を相続する予定だったものと思われる。しかし、有村次左衛門が、桜田門外の変で自刃・自決したことで、日下部伊三次の長女と再婚したのが、有村次左衛門の長兄・有村俊斎( 後に「海江田信義」)だった。有村俊斎は、弟の婚約者だったマツ( 松子)と再婚し、日下部家を相続する同時に、日下部の旧姓であった「海江田」を名乗ることになる。それが、明治維新の激動期を生き延び、明治新政府で、貴族院議員や枢密院顧問などの要職を勤めた海江田信義である。
ところで、西郷南洲も、日下部伊三次を人間として高く評価していた。日下部伊三次は「水戸藩士」だったが、島津斉彬の懇願で、「薩摩藩士」となっている。実は、ここには、不思議な歴史的背景があった。日下部家は、元々、薩摩藩の武士であったが、薩摩藩の「ある事件」に巻き込まれたらしく、薩摩藩から逃亡し、水戸の地に住み着いていた。その元薩摩藩士が、日下部伊三次の父、海江田連である。海江田連は、名前を「日下部」に変え、水戸藩の太田で、私塾をひらいて、青少年の教育に励んでいた。教育者としての海江田連は、人格、識見、ともに高い評価を得て、太田学館の幹事にまでなっていた。その息子が日下部伊三次である。日下部伊三次は 、父の後を継いで太田学館の幹事となるが、父と同様に、その人格識見を買われ、水戸藩士に取り立てられている。日下部伊三次を見た徳川斉昭は、その人格を認めると同時に、親交のある薩摩藩主・島津斉彬に推薦し、薩摩藩士として復帰出来るようにと取り計らった。島津斉彬もまた、日下部伊三次の力量に注目し、薩摩藩江戸屋敷詰めの薩摩藩士として、喜んで受けれたのだった。それからは、日下部伊三次は、薩摩藩と水戸藩の連絡役となり、両藩を股にかけて、尊皇攘夷派の武士として重要な役割を演じることになる。「安政の大獄」事件のきっかけともなった水戸藩の「戊午の密勅」事件の主役の一人が日下部伊三次だった。日下部伊三次は、水戸藩の鵜飼吉左衛門らとともに 、密勅を水戸藩江戸屋敷へ運ぶ。この「戊午の密勅」事件で、幕府と水戸藩は、激しく対立し、一触即発の危機的状況になる。その結果が、井伊直弼が発動した「安政の大獄」事件である。この安政の大獄で、多くの尊皇攘夷派の志士たちつおともに日下部伊三次も、尊皇攘夷派の志士として捕縛され、獄死した。
■商業誌としての文芸雑誌は滅びよ。全ての文芸雑誌が滅びた後に、文学は蘇るはずだ。ーー文芸雑誌撲滅論。
珍しく、ある文芸雑誌から20枚程度の原稿を依頼されたので、今、私は、文学や文芸雑誌というものに、昔ほど、関心や興味があるわけではないが、そうかと言って、まったくないわけでもないので、思いつくままに、文学や文芸雑誌に関する「個人的な感想」を書いてみることにする。「ある文芸雑誌」と言っても、いわゆる大手出版社の出している「文学界」や「新潮」などのような有名な文芸雑誌ではない。また「早稲田文学」や「三田文学」のような大学をバックとした伝統ある文芸雑誌でもない。『文芸思潮 』という極めてマイナーな文芸雑誌である。マイナーな文芸雑誌ではあるが、私は、大手出版社の出す文芸雑誌に関心がないのと反比例して、逆にそのマイナーな文芸雑誌『文芸思潮 』に興味を持っている。そこには 、商業誌的な文芸雑誌にはないものがある。文学の原点、文学の素心、文学の神髄・・・とでも言うべきものが、そこには、確実にあるからだ。
かつて 、「同人誌」というものが盛んであった。私が、文学や小説に関心を持つようになった頃 、芥川賞を受賞し、話題になったのは、柴田翔の『 されどわれらが日々』という小説だった。その小説は、元々は、「象」という同人誌に発表されたものだった。また、東京の高校生( 藤沢成光)が学内の同人誌「しまぞう」に発表した『 羞恥に満ちた苦笑』という小説が、朝日新聞の「文芸時評」に取り上げられ、大きな話題になったのもその頃だった。その頃までは、文学や小説は、同人誌中心に機能していた。「文学界」の巻末には、「同人雑誌評」といコーナーがあった。私は、そこを、ひそかに愛読していた。澁澤龍彦や秋山駿、河野多恵子、佐木隆三・・・などの名前を知ったのは、その「同人雑誌評」であった。
ところで、「ある文芸雑誌」は、全国の「同人誌」を特集し、同人誌を紹介している。というより、全国の同人誌を母体にして成り立っている文芸雑誌と言っていいかもしれない。商業誌としての大手出版社発行の文芸誌の力が増し、文学や小説の中心が、商業誌としての文芸雑誌に移ると同時に、あるいは文芸雑誌が主催する「文学新人賞」の役割が拡大するに連れて、文学や小説の世界も、商業化し、「売れあげ」重視の文学や小説へと変貌して行った。「売れない小説は小説ではない」(笑)とでも言うかのように、文学は「商業主義」にのみこまれていった。
文壇や文芸雑誌の界隈で、「売れた、売れた〜」と大騒ぎすることが、文学や小説の中心的話題となるようになったのも、その頃からである。村上春樹の登場は、その流れを決定的にした。村上春樹が「ノーベル賞候補」になったと、大騒ぎするのが、文芸雑誌編集者たちの毎年の恒例になったのも、その一例だろう。極端な場合は、村上春樹の新作は、出版される前に、大ベストセラー騒動がおこり、大ベストセラーへ爆進という珍喜劇までが起こる。噂では、村上春樹批判は、文壇や文芸雑誌の世界ではダブーとなり、村上春樹批判をする文芸評論家たちは、文壇や文芸雑誌から煙たがられ、排除され、追放されていった。私と同世代か、その前後の世代の文芸評論家達の多くは、村上春樹とその小説には批判的だった。そして当然のように 、彼らは、表舞台(文芸雑誌 )から消えていった。彼らに代わって、文芸雑誌に登場してきたのが 、東大教授や准教授を筆頭に、毒にも薬にもならない無能な大学教員やその予備軍であった。彼らは、文芸雑誌の編集者たちの「意向」を忖度して、恥も外聞もなく、「村上春樹絶賛」を繰り返した。彼らは、書くことに命を賭けていない。東大法学部教授の丸山眞男が、大学が本業だとすれば 、雑誌や新聞などのメディアの仕事は「夜店」みたいなものだ言ったことがあるが〜。その結果、文学や小説から「批評」や「論争」が消えた。文学や小説が地盤沈下して、社会的にも存在意義を喪失していくはずである。現在の文学の退廃と堕落は 、敗戦後の日本の惨状と変わらないだろう。
私の文学的出発は、岳真也さんが主宰する同人雑誌『蒼い共和国 』だった。商業誌ではなかった。私は、同人雑誌から出発し、同人雑誌を中心的な舞台として文学的活動を展開してきた。たまに商業誌としての文芸雑誌に登場したこともあるが、私の表現の場所は、あくまでも同人雑誌だった。大手出版社の商業誌としての文芸雑誌から見れば、明らかに「シロウト」であり、「アマチュア」でしかなかっただろう。しかし、私は、ある時点から、大手出版社の商業誌としての文芸雑誌というものに魅力も価値も存在意義も感じなくなった。大手出版社の文芸雑誌からの「原稿依頼」に一喜一憂する同世代の作家や評論家たちの姿を見ていて、それは文学ではない、そこには文学はない、と思うようになった。特に「小説」ではなく 、「批評」を重視していた私のよう文芸評論家志望の者は、文芸雑誌に適当に利用され、適当に使い捨てにされ、適当な時期が来ると切り捨てられるのだ、と思うと、自分が虚しくなった。なんのために「文学者」を目指したのか。私は、江藤淳や吉本隆明のような文芸評論家を目指していたので、やはり江藤淳や吉本隆明が自分のマイナーな雑誌(「季刊芸術」「試行」 )を作り、そこに、地道に、書きたいものを書いていくという「自立メディア」の方向を、自分も目指すべきだと考えるようになっていった。商業文芸雑誌の奴隷になってはいけない、と。そのことを自覚した頃、私は、自分の力で雑誌を作り、そこに 、「書きたいものを書いていく」という吉本隆明的な方法を模索した結果、その頃、登場してきたネット空間とネット言論に活路を見出すことにした。ネット空間とネット言論は「私の同人誌」だった。
先日、岳真也さんから、「夕刊フジ」が届いた。そこに、岳真也さんが、写真入りで大きく取り上げられていた。岳真也さんの最新作『翔 』が、注目すべき小説作品として紹介されていた。来るべきものが来たな、と私は思った。お前らには出来ないだろう、と。岳真也さんの『翔 』という小説は、『三田文学 』や『早稲田文学 』に、分載された「マイナー文学」だ。もちろん 、「売り上げ」重視の文芸誌とは無縁な作品だ。商業誌としての文芸雑誌は、当然のように、 岳真也さんの最新作『 翔』を無視している。書評で取り上げたという話も聞かない。そこで、「夕刊フジ」が、一ページを使って、ドカーンと取り上げたというわけだ。
話は変わるが、二三年前( ? )、「LGBT」が話題になったことがある。参議院議員の杉田某女史が、『新潮45 』に「LGBTには生産性がない」と書き、左翼リベラル派からバッシングを受けた事件である。さらに文芸評論家の小川某がそれを擁護したことで事件は拡大し、『新潮45 』が廃刊に追い込まれた事件である。その騒動の時、新潮社社員( 編集者 )たちが、一斉に、「LGBT差別」反対ののろしをあげた。「 新潮社社員( 編集者 )たち 」は 、出版社勤務とはいえ、所詮は、平凡な「社畜」、つまりサラリーマンであり、「健全なる一般庶民」であるから当然だろう。しかし、私 が疑問に思ったのは、新潮社に関係する作家や評論家たちまでが 、一斉に、「LGBT差別」反対に唱和したことである。最近の作家や評論家は、「健全なる一般庶民」と同じ感覚や思想の持ち主なのか、と思ったものだ。高橋源一郎や平野啓一郎、島田雅彦〜等も、含まれていたので、私は驚いた。というより、彼らが中心になって、それを主導していたので、絶望的な気分になった。商業誌文芸雑誌に飼い殺しにされた挙句、言いたいことも言えず、サラリーマン編集者たちに唱和している文学者たち〜。これこそ、文学者の「自殺行為」だろう。おまけに、高橋源一郎は、「文芸評論家」を名乗る小川榮太郎に向かって、「お前は文芸雑誌(商業誌 )に、一度も原稿を書いたことはないだろう」「文芸評論家を名乗ることは恥ずかしい」・・・とか言うような発言をした。馬鹿か、と思ったものだ。そもそも商業主義的文芸雑誌が、「文学」と「非文学」の差異を決めるのではない。私は、小川榮太郎の政治的発言の多くに反対である。しかし、小川榮太郎の「LGBT」騒動での勇気ある発言には、激しく同意した。小川榮太郎こそ文学者であり 、文芸評論家に相応しい、と。
そもそも文学とは何か。文学者とは何か。
■『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代』(6)に向けて〜。その原稿の下書き的メモです。
『江藤淳とその時代』(5)を、先日、どうにか書き終えました。「江藤淳の原点=十条時代」というテーマでしたが、枚数の限界もあり、書き足りなかったので、もう少し書き加えようと思います。江藤淳は、北区十条仲原3丁目1番地での生活を「穢土」と呼んでいます。この「穢土」という言葉には驚きますが、江藤淳が、この時代を、あるいはこの街を、どう見ていたか、どう感じていたか、あるいは、江藤淳自身の文学や学問にとって、どのように重要な意味や価値を持っていたかを考える上で、おそらく、この「穢土」という言葉は、キーワードとなる言葉です。江藤淳自身が、「北区十条仲原3丁目1番地」での七年間に、「文芸評論家=江藤淳」になった、と言っているように、江藤淳の批評は、「穢土」から生まれたと言っていいということでしょう。
江藤淳を、根拠もなく毛嫌いし、江藤淳の文章をまともに読んだこともないにも関わらず、古臭い文学趣味を根拠に、江藤淳を批判し、否定し、罵倒する人たちの多くが、この事実を知りません。江藤淳という文学者を、ブルジョワ趣味の上昇志向型インテリの「俗物」と見て、軽蔑的に嫌悪している人は少なくないと思われます。しかし、そういう人たちは、読みが浅いと言うべきです。いや、そういう人たちの文学趣味や文学観が、古すぎると思う。江藤淳の批評や文学は、過激である。「俗物であることを恐れない俗物」はもはや「俗物」ではない。「長生きが一番〜」「命あっての物種~」というような俗物的価値観とは対極にある「自殺」というかたちで、人生を終えた江藤淳は、明らかに俗物ではなかった。江藤淳を、「俗物」と見て、軽蔑、嘲笑していた人たちこそ俗物的価値観に囚われた俗物の典型であったと言うべきだろう。
■『江藤淳とその時代 』( 『月刊日本』連載原稿の下書きです。)
江藤淳は、華々しい活躍の足跡を残した日比谷高校時代について、ほとんど書き残していない。その代わり、ほぼ同時代のことであるが、北区十条時代の病苦と貧乏の「惨めな私生活」については、かなり詳しく書き残している。日比谷高校時代が「表の顔」だとすれば、北区十条仲原時代の「私生活」は「裏の顔」にあたるだろう。江藤淳を読んだことのある人なら、「自慢話」の好きな江藤淳は、日比谷高校時代の数々のエピソードを、これでもかこれでもかと、書き残していると思うかもしれない。そして自慢話にならない北区十条時代の貧乏生活については、黙っていたはずだ、と。そう考えるのが普通だろう。しかし 、江藤淳はそうしなかった。江藤淳は、自慢話より、自慢にならない北区十条時代の私生活を、かなり執拗に、しかも深い思いを込めつつ、書き残している。何故か。おそらくここには、文学者=江藤淳の文学的本質が隠されている。江藤淳的批評の本質とは、「言いたいことを言い、書きたいことを書く〜」という単純素朴なことだった。しかし、江藤淳の場合、もっと大事なことは、それを、誰に遠慮することもなく、大胆不敵に、実行 、実践したことである。江藤淳に「敵」が多かったのは、そこに原因があるが、逆に見れば、そこに、江藤淳の江藤淳たる最大の魅力があった。
江藤淳は、「文学」について、こう書いている。
《 逆に文学とは、決して権力構造にはなり得ないものである。そこでは文章が、作品がすべてであり、それを支える個々人の肉声以外の権威はあり得ない。身内から衝き上げて来るこの生身の肉声を、文学に定着したいという衝動がうずきつづけるかぎり、文学に関わる者は、”排除”されようが、孤立しあるいは追放されようが、ましてその所信を検閲によって黙殺され、世間の眼から隠蔽されようが、やはり孜孜として書きつづけなければならない。》( 江藤淳『 ペンの政治学』)
「 個々人の肉声」とか「身内から衝き上げて来るこの生身の肉声 」・・・というような言葉に注目したい。単純素朴な言葉で、誤解を招きそうな言葉だが、江藤淳にとっては、これが、江藤淳的批評の本質を語る言葉だと言っていいい。